館林・田中正造記念館への道(2017年)―3(その3):(2回目追加=7/10)

館林・田中正造記念館への道(2017年)―3(その3):(1回目追加=6/30)


【更新履歴】

2021/06/29 22:43掲載

2021/07/04 16:31 第二回追加の下書掲載


Part-1はこちら→http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?p=4857

Part-2はこちら→http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?p=4904

Part-3(その1)はこちら→http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?p=4943

Part-3(その2)はこちら→http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?p=4984


このページは下記赤の部分である。

【目次】

【東京3日目・11月28日の行動】


【2017年11月28日の日程】
11月28日午前4時頃就寝か?

午前9時頃起床
午前10:20分頃ホテル発

池袋10:41発:合計金額 1,180円
久喜(埼玉)=11:24着(14分)11:38発

(私鉄等)東武伊勢崎線普通(東武動物公園-館林):420円

12:07着館林駅

13:09:田中正造記念館
14:25:同上発

14:35:食堂
14:50:皇后の小学校六年時の絵撮影

15:10頃:ホテルチェックイン(ニューミヤコホテル館林)
15:30頃ホテルで自転車借り出発

16:10頃:川
(何度も道を間違え)

16:34 雲龍寺着
17:12 同上発

18:20頃道間違えホテル着(大塚)

コンビニに買い物など
翌朝午前2時頃寝たか?(記録なく不明)

★写真はすべて、クリック一度でパソコン画面大、二度クリックで巨大。

田中正造への道-Part 3

(2)田中正造記念館への道・Part3(その3):1回目の記述・2021/06/30

田中正造記念館は既に記述した如(ごと)く、手作りの資料館というイメージが強かった。
アトホーム型である。
翌日の、佐野資料館は官僚型のイメージがあったのとは対照的である。
ただし、それはXか🎌の将軍様か誰かが裏で動いていたかもしれない。

2017年の上京は奇異な雰囲気が随所にあり、人間違いが強調された旅であった。
それは官邸🆚皇室が絡んでいたのかもしれない。
官邸🆚皇室とは何なのか。
実は私も知らない。
本当に知らないのである。
官邸🆚皇室があったのかどうかも知らないのである。

今回の原稿をも含む『日本のフィクサーME・パート5』を記す頃には全貌(ぜんぼう)とまではいかずとも、かなりのことが分かるかもしれない。
そのときに、幾分記せるようになるであろう。

催眠独り言で潰(つぶ)され、朝方に寝るため起床時間がずれる。
秋から冬にかけて夜は「秋の日は釣瓶落(つるべお)とし」である。
そこで、起きるや否や、即行動に取りかかるため、この日は朝食も昼食もまだであった。
だが、まだ田中正造の墓などに行かねばならぬ。
しかし、食事も一食もしないのでは健康に悪い。
そこで、館林らしい食堂を探し入ることにした。
その食堂で、美智子上皇后(当時は皇后)の絵に出会うことになるとは夢にも思わなかった。

田中正造記念館玄関(出入口)

田中正造記念館出入口:2017年11月28日14時12分:№17-079-077

田中正造記念館出入口:2017年11月28日14時13分:№17-079-078

田中正造記念館(裏庭)

田中正造記念館裏庭:2017年11月28日14時19分:№17-079-099

 

田中正造記念館裏庭:2017年11月28日14時20分:№17-079-105

田中正造記念館裏庭:2017年11月28日14時21分:№17-079-106

 

田中正造記念館裏庭:2017年11月28日14時22分:№17-079-108

 

(2)館林への道・Part3(その3):2回目の記述・2021/07/11頃を予定:2021/07/04 16:28。2021/07/10 22:05追加と修正

美智子上皇后の絵との対面。

 


不可思議なことがある。
Twitterで美智子皇后(現在の上皇后)の絵を掲載すると、当時のアクセス数は数十分の一に激減した。
ミスター・オバマのコメントを私の翻訳付きで掲載しても、通常の十分の一に激減した。

他方、はしだ のりひこ(本名:端田 宣彦、同志社高校卒、同志社大新学部中退:1945年1月7日 – 2017年12月2日)の訃報を掲載すると一気にインプレッションは1万近くとなる。だが、他の有名人の訃報ではこのようなことはない。

最初はミスター・トランプの悪戯(いたずら)かと思ったが、この現象はトランプ政権のみか、バイデン政権でもみられた。すると、オバマ政権でも見られたのであろう。
ちなみに、アメリカの中間選挙の途中経過を掲載してもインプレッション数は多い。

偶然ではあるまい。誰が斯様(かよう)な操作をしているのであろうか。
Twitter社が美智子上皇后の絵やミスターオバマのコメントの英文を私の翻訳付きで掲載しても、故意にインプレッション数を低くすることはあるまい。
それでは誰が。バイデン大統領のコメントの重要なものに英訳をつけても出が悪い。

また、安倍内閣批判類も同様である。文在寅大統領などを良い意味で掲載しても同様である。

この分析が可能となればXグループの正体は分かるかもしれない。


ちなみに、英語版Twitter(安らぎ文庫Twitter)では、一齣(こま)でインプレッションは一日で3万を超えたこともある。だが、インプレション数の出方から、全く何が原因か分析できない状態でいる

この食堂は、本日、地図で確認すると館林うどんのようである。下記のような解説がインタネットにあった。

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この店には、現在の天皇陛下をはじめ、皇太子殿下、秋篠宮殿下がお見えになっているそうです。
http://www.the-udon.com/access.htm

秋篠宮殿下といえばナマズの研究で有名ですから、てっきりナマズの天ぷらに興味を持たれてこの店に出向かれたのかと思ったのですが、どうやら違うようです。

この店が皇室とご縁があるのは、お店のそばに正田家(美智子皇后の父親・英三郎氏の実家)があるからのようです。正田家は日清製粉の創業者で、日清製粉はもともと館林製粉株式会社という会社だったそうです。

皇室にとって小麦粉といえば館林、うどんといえば館林といったところでしょうか。
でも、「館林うどん」という名称を他の館林のうどん屋が使えないとすれば、館林にとってうどんで町興しをするのは難しい気がします。

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https://tabelog.com/gunma/A1002/A100204/10001015/dtlrvwlst/B112691682/

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こうして、偶然、天皇家ゆかりの店に入り、美智子上皇后の絵を拝見することになった。撮影は当然駄目だろうと思ったが、念のために聞くと「御自由に写してください」であった。

なお、翌日の佐野郷土資料館撮影では、後で知ったが、平成天皇(今の上皇)が見学した位置と全く同じ位置で見学をしていた。前日の、井の頭公園でも、先に書いたように、上京が延期でなければ鉢合わせの可能性すらあった。もっとも警備の関係で中にはいれなくても、道中で出会っていた可能性があった。

なお、今の天皇は学習院大学法学部政治学科進学となっていた。ゼミ指導教授は飯坂良明先生となっていた。当時、飯坂先生は学習院大学法学部の学部長であった。同時に、早大の大学院でゼミ指導の如く形態で授業をされていた(一学年十人程度で)。私も習っていた。先生が「現在の天皇が学習院にこられれば、日本国憲法の理念に従って指導をしたい」と言っておられたことを覚えている。しかし、突然、皇太子・徳仁氏は学習院大学文学部に変更された。なお、弟さんの秋篠宮氏を誰が担当したかは知らない。後に飯坂先生は 聖学院大学学長になられたと聞いている。

2017年の上京の件は『日本のフィクサーME・パート5』で掲載するが、今暫く、当時の官邸と皇室がどのような関係にあったのかが不明のため、先延ばしとし、先に『日本のフィクサーME・パート3』の後には『日本のフィクサーME・パート6』に入るかもしれない。

館林食事所:2017年11月28日14時50分頃:№17-079-112 11-28a

館林食事所:2017年11月28日14時51分頃:№17-079-113

館林:2017年11月28 :14分52分:№17-079-120

館林:2017年11月28日14時51分:№17-079-114

館林:2017年11月28日14時52分:№17-079-117

 

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群馬・館林市にある館林市立第二小学校の校長室には、美智子さまが描かれた百合の絵が飾られている。太平洋戦争の末期、皇后さまは東京を離れ館林市に疎開していたという。しかも1度ではなく、3度の疎開生活を経験されていた。

 昭和16年12月8日に太平洋戦争が開戦し、昭和19年に日本本土への空襲が激化すると、子供たちは疎開生活を送ることになった。東京・雙葉学園小学校に在籍し4年制だった皇后さまも例外ではなかった。

 一度目は昭和19年春、湘南へと疎開され、昭和20年には群馬・館林市に身を寄せられた。館林市立第二小学校には皇后さまの転入の記録が今も残されている。当時の同級生によると、活発だったご様子が伺える。

 しかし館林市の上空にも爆撃機が飛来するようになると、皇后さまは軽井沢へと向かわれた。明治時代から避暑地として有名で、戦時中も外国人が滞在し戦火にさらされる危険は少ないと思われていた。

 当時の同級生・中島松樹さんは「上品なお嬢様と皆が思っていた」と当時を振り返る。皇后さまは疎開先の軽井沢で終戦を迎えられた。しかし戦後の混乱から東京にはすぐに戻ることができず、館林市で過ごされた。昭和22年1月、やっと東京へ戻ることができた。
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報タイプ:企業 URL:http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/school/sho.daini/ 電話:0276-72-4472 住所:群馬県館林市本町3-6-1 「館林市立第二小学校」の場所を大きな地図で見る 地図を表示
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https://kakaku.com/tv/search/keyword=%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%B8%82%E7%AB%8B%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1/
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2021年7月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA