館林・田中正造記念館への道(2017年)―2:(8回目=5/23記述)

館林・田中正造記念館への道(2017年)―2:(8回目=5/23記述)


【更新履歴】

2021/05/03 3:39 一回目の記述。 2021/05/03 13:40追記。13:43微修正

2021/05/05 17:15 二回目の記述

2021/05/06 23:40 三回目の下書

2021/05/07 三回目の記述正式公開 17:13追記 17:46追記

2021/05/09 23:32 四回目の追記

2021/05/12 0:04 五回目の追記 17:29 微修正

2021/05/15 18:00頃~20:47 六回目の追記(一番下です。長いのでスクロール大変ですが、御容赦を)。「赤問題」を斬る(田中清玄~渡邉 恒雄~都留重人までと、更なるデマ気配について。) 21:00タイトル大文字に。

2021/05/19 21:37 七回目の追記(東大生は英語ができるか…など、今回は比較的誰もが興味を持つ内容)。第9回目の追記からページを変更します。

2021/05/23 0:33 八回目の追記(皇室🆚官邸、更に北朝鮮ミサイル問題と米朝首脳会談への動き、これらの阻止か秋篠宮眞子氏騒動が…)


Part-1はこちら→http://takachan1.xsrv.jp/photoblog/?p=4857


11月26日美作~上月~姫路~東京
(1)靖国神社→⚔👮
(2)千鳥が丘墓地
(3)皇居→⚔守衛?
(4)早稲田大学
(5)三鷹世界連邦平和像
(6)早稲田
★⚔翌午前5時頃まで独り言催眠等
→これで27日の行動封じられる

11月27日
(7)早稲田
(8)井の頭公園
★⚔翌午前3時頃まで独り言催眠等
→これで28日の行動封じられる

 

11月28日→館林へ(パート3)今回のパート2終了後に。


館林への道2

(1)靖国神社→⚔👮

(2021/05/03 3:19記述)
東京へつくと、まず皇居を目指した。
皇居を目指した理由は先に書いた通りである。
(起業目的で開始した)フィールドワーク妨害が余りに多く、その防波堤に2016年にはアメリカのオバマ大統領がなってくれたと思っていた。
今回(2017年)の上京(本質は早大が目的の旅)では、平成天皇がなっていただいたと思っていた。私は天皇崇拝者ではない。逆でもない。日本国憲法に関しては護憲派である。その日本国憲法1条には「天皇は国民統合の象徴」とある。
だが、そうした立場上の問題ではなく、財布を道に落とし、誰かにひろってもらったならばお礼をいう。同様に、今回のフィールドワークで防波堤になっていただいたならば、お礼をいわなければならない。

そこで、皇室を目指した。しかも、2016年の長崎・水俣は11月22日発であった。2017年も、その頃には東京にいるはずであった。もし、人権擁護協会封筒・法務局の封筒が入っていなければ、11月22日は井の頭公園に行っていた可能性が高い。後に知ったが、平成天皇夫妻も2017年11月22日に井の頭公園にいかれていた。

帰宅後に知ったが、私もほぼ同一場所で写真を撮っていた。佐野でも同様であった。館林でも…。それらの話は徐々にしよう。


なお、皇居にいく道中に靖国があるため、靖国神社の写真も撮ることにした。靖国についていつか原稿を書くときもあろう。そのときに写真が必要になるが、著作権・版権上、他人のものを使用することはできない。そこで、自分で撮ることにした。

靖国神社にいくと、大変、職員は私に対しては紳士的に思えた。しかし、途中で警察官の服をした人が現れ、「どうしてくれるのだ」と言うが如し態度をとった。ここはまだよかった。この後、千鳥が丘墓地に行った。その次に皇居を目指した。そこで…、そしてその夜…。これらは次回記そう。


(1)靖国神社
この辺りで警察官が…。

ともかく、何かおかしかった。東京を離れる頃には皇室🆚👺の争いに…などと思う始末であった。

(下記写真に写っている👮か守衛さんは下の「困るで…」👮とは無関係です)📷はいずれもクリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大。

靖国神社:写真№17-063-051:2017年11月26日11時33分頃撮影

(2021/05/03 13:38 SNS等で追記文)

【📷】写真物語ブログ
#群馬県 #館林 への道 パート2

何かおかしい
#皇室🆚👺の争いに巻き込まれたか
心当たりは全くない
デマが…
#靖国神社 撮影:著作権対策から。
👮が「どういうことか」「困るで」の如し
皇居では…夜は…連続続く

21-123-2【📷】
A)韓国から帰国→#張成沢 処刑
B)東京から戻る→#秋篠宮眞子 氏関連の週刊誌報道開始
俗に言う小室氏報道…開始
いずれも12月12日

長崎訪問2016年11月22日
妨害なければ2017年11月22日に #井の頭公園 で #平成天皇 と同一日同一場所だった→後で知る。日本のフィクーMEパート5の一部
超多忙で牛歩で記述中

(2021/05/05 追加)

(靖国1枚追加)

17-063-081 :2017年11月26日11時41分頃撮影(🎦🕐は11問い46分)

その後、千鳥ケ淵戦没者墓苑へ。

千鳥が丘戦没者墓地:17-065-062 :2017年11月26日12時36分撮影

そして、皇居へ向かう。

ここで、警備の人が身構えた。遠方のため、確かとは言えぬが、銃か何かに手をかけたよう。

そのため、むやみに刺激をしたくなく、皇居方面は断念して引き返す。

念のため、道の標識を確認したが、通行止めとか侵入禁止の標識は一切なかった。

私はただ撮影をしていただけである。

もっとも、私の東京フィールドワーク妨害を 当時の今上天皇(平成天皇)が防波堤になっていただいたかとお礼の意で皇居方面にむかっただけである。

皇居はどこにあるのか、知らない。

しかし、立ち入り禁止とか、進入禁止の標識があれば、それは確実に尊重する。

だが、写真の位置でいわば脅された。

その夜、緊張は、私以上に皇室にでていた。多くの人が恰も青ざめた感じを受けた。

また、その夜に…。これらは次回記そう。

早大でも不可思議なことが、井の頭公園でも、更には館林市でも、佐野市でも…と続く。

人間違い騒動と、皇室🆚👺に絡めた挑発続きであった。

再度言えば、私は憲法・法律に違反どころか、宮内庁の指示を尊重し、宮内庁の規則すら一切破ってはいない。この話は国内だけに留まったが、世界が注視していたならばどうなったであろうか。あのとき、ライフル銃?か何か何を構えたか構える振りをしたのであろうか。過剰警備以上に、面白がっての国民への嫌がらせであった。

これは皇室の指示では一切ない。警備陣であり、彼らに誰が何を指示をしたのであろうか。

私が皇室関係者に危害を加えると思う日本人は一人もいないはずである。

それでは何故…。

一つの疑惑は誰かがデマを飛ばした…。誰が、何のために…

場所は下記である。

皇居方面へ向かうがここで中断:写真番号17-066-104:撮影は📷時間が11月26日13時8分。但し📷の🕐設定にミスが数分ある。

 

パート2(3回目の追記)(2021/05/06 23:27下書:2021/05/07正式公開)

母校早大へ。

早稲田着:2017年11月26日14時2分頃:📷№17-068-008

東京行きの目的は母校の一つ・早大であった。
ところが、何故か、途中から皇室🆚官邸(2016頃~2019頃) に巻き込まれた疑惑がある。心当たりは全くない。考えられる原因は思いもつかぬデマである。
ともかく、「館林への道」の中で2017年当時の話をありのままに掲載しよう。
上京目的を記述する前に、早大で起こった三つの奇異なことを掲載しておく。

一つは、次々回記す、⛑ヘルメット学生が突如登場(とは言っても、早大院時代に私とは何の関係もないし、東京時代には実際に何もなかった)。駿台講師時代に何度も早大に行ったときも同様である。何の猿芝居かと思ったことも後日記そう。


もう一つは随所で語学強調や、私が早大院はもぐりか的な挑発である。これも次々回頃に記そう。後者は駿台講師時代に早大に何度も行ったが、斯様(かよう)な挑発は皆無であった。▽
もう一つは、2017年頃から愛子さん替え玉説や天皇替え玉説という訳の分からない問答に巻き込まれたことである。

今回は上京の目的を2017年の手記から抜粋するに留める。

☆☆☆☆☆
今回のフィールドワーク・東京を振り返って。

《◇―1・何故、東京へ行ったか》
今回の東京行きは、半年以上に亘(わた)る、催眠?で説得されたものによる。
東京には行きたいというよりも行かねばならないという気持ちは終始あった。
駿台前半時代は年に二度か三度行っていたときもある。ところが、今は経済封鎖されており、予算がない。何度も書いたように、東京に行くとは、長崎や水俣に行くよりも高くつく。ソウルなどは東京に行くよりは完全に安い。中国も、上海などは同様である。もっとも、私の場合に限定かもしれないし、誰でもそうかもしれない。


ともかく、予算上、東京に行くとは大旅行となり躊躇(ちゅうちょ)していた。ところが、半年以上に(多分一年以上に)亘(わた)り説得をされ続けた。

起業を目指しているのであろう。電子書籍などで生きていくことを目指しているのであろう。

しかも、親の遺産には限りがある。先日(2018/01/25)催眠で一部言わされたため、簡単に言えば、兵庫県で教師をしている友人夫妻の年収一年分程度の額である。もっとも、この友人が教頭をしていた頃の額であるが。奥さんも教師である。この夫婦一年分の年収以下である。(それも遺産は2012年末か2013年初頭頃にかけての一度のみである)

それ以前の貯金類は拙著『恐るべき労基法違反』に詳細に記述している。しかも、この本は無料公開、無料でPDFをダウンロードできるようにしている。それを読めば、人は驚くであろう。正に生き地獄と。
(参考)『恐るべき労基法違反』ダウンロードページ=http://www.h-takamasa.com/rensai/custom.html

実際に、生き地獄であった。
奴隷労働というよりも、貢ぎ労働強要であった。労基法違反というよりも、刑事犯罪に幾つも抵触している可能性が高い。

そこで、「有り金問題などから、投資が相当厳しい状況に間もなくなるならば、最後の賭けと考えて東京に行ったならばどうか」、と。確かに、電子書籍類やインタネット類で金を稼ごうと思うならば、顧客は学生・大学院生・教職員が最適であることは事実であろう。

「関学もよい。しかし、早大は教職員、学生・大学院生合計で六万人を超えている。さらに、同窓生は百万人を超えているであろう。その上、その家族もいる。最後の賭けならば、早大抜きでどうするか」、ときた。

私はどうせならば海外の方に未練があった。と言うのもソウルは中途半端な形となっており、ベトナムも中止となっているし、鑑真の足跡を追う中国も途中やめとなっている。
全部は無理でも、一箇所でもという未練もある。しかも、費用はソウルなどの方が安い。ウォンも残っている。中国は場所次第である。
最後になるかもしれないフィールドワークならば…。


寝ている間に説得が続く。
「生きるか死ぬかの瀬戸際だろう」、と。
「ともかく、仕事オンリーで行かねば生活保護の道」、と。
また、東京には世話になった人もいる。行って会いたいが手ぶらでは、…と躊躇(ためら)った。

再度、寝ている間に催眠が指示をする。
「もう、年齢より後はないぞ。近所と揉(も)めようと、その他のフィールドワークを犠牲にしようと、販路開拓の最後の賭(か)けは早大だ」、と。
私の「住んでいる市の人口二倍以上の教職員と学生のみか、住んでいる市と異なり、層が全員インタネット活用商売上の良質な顧客となりうる層である。簡単に言えば神戸市を制するよりも意味がある。実質的には、大阪府全体に該当するような市場である」、と。

「最後の賭(か)けだ」、と。これを半年から一年繰り返され、刷り込み現象型でやられ、東京に行くことは2017年夏頃には決心した。
なお、「もういつ死んでもおかしくない年だ」、と。これも効(き)いた。

こうして東京行きが決まった。(ちなみに、後に記すようにフィールドワークの大半が催眠誘導であった。)

☆☆☆☆☆
以上「フィールドワーク・東京」(2017年12月1日)の記録―6」より
http://h-takamasa.com/Blog/?p=12569
☆☆☆☆☆

写真のアイデアがでてこず、特異の多重露出とする。:📷№17-068-49

(2021/05/07 17:09追記)

東京フィールドワークを実施するに当たり、膨大な妨害が予想された。皇室に関しては、フィールドワーク妨害の防波堤に、(平成)天皇がなっていただいたのかと思い、皇居の許可された位置(標識)まで進み、一礼をする予定でいただけであった。フィールドワークでも、少しでも起業に繋がる可能性のあるものは、想像を絶する妨害があったからである。

なお、写真は「2013年の真相」№18をみれば分かる如く、フィルドワークの作品化に不可欠なものである。すると、カメラ関連でも上京以外でももの凄い妨害があった。安らぎ文庫有限会社…最低でも開業のはずが…親戚・近所巻き込まれ…更にサイバー攻撃、更に更に政治も絡み…🤷状態で7年以上。開始からでは20年以上となる。

この後、三鷹・世界連邦平和像に向かう。

2021/05/09 23:32記述

三鷹世界連邦平和像を撮る

世界連邦平和像①:三鷹市2017/11/26 17時36分頃撮影:📷№17-070-094

安倍晋三氏については不思議なことがある。
安倍氏ではないかもしれないので👺と記そう。
安倍氏か👺か誰かが、私に脅しや脅迫めいたことをしてくる。
私の弱みのようなものを見つけては裏や表で脅しの如(ごと)く状態が続くときがある。
ところで、脅しは何か目的をもって行うものである。
「▽▽にせよ…」と。
ところが、私への脅しは目的が全く分からないのである。

もっともらしいものを羅列しよう。
①安倍晋三を批判するな。
逆である。私は、第一次安倍政権でも安倍晋三批判はしていない。
第二次安倍政権でも2013年~2016年夏前までは安倍晋三批判はしていない。
2016年、安倍氏が不義理なことをしたので、怒ったことがある。それも短期である。
事実は2017年から、各種脅し類があったので、その火の粉を払っただけである。
2016年批判は下記参照。
☆☆☆☆☆
「党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話―1」から「同-5」を読んでもらいたい。
「党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話―1」のアドレスのみを掲載する。(必要な人は裏話―1から続きを読んでもらいたい)
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=14976
☆☆☆☆☆

②政治から手を引け。
これも逆である。
私は2013年から起業を目指し、政治には原則として手をだしていない。
2015年ホームページ開催までは、安倍晋三氏の支持率すらみていない。
自慢の逆であるが、安保法制や特定秘密保護法案も内容を知らない。
そこで批判も一切していない。
その上、2017年ミスター・オバマの大統領辞任と合わせて、私も政経からフェードアウトしようとしていた。

③私が左翼なので頭にくる。
私は左翼ではなく、党派中立・宗派中立と記しているし、それを実行している。
小泉純一郎内閣でも相談を受けたことは誠意をもって回答している。

④安倍晋三に協力をせよ。
2016年今月の歌では、安倍晋三氏から📺などを通じて依頼があったため、G7の際には協力をした。
それも無報酬である。
ところが、その協力自体をできなくしたのは上記の如く安倍晋三氏である。
また世界の首脳の英語などで安倍晋三氏のCMまでしている。もはや何をかいわんかやである。
☆☆☆☆☆
日本・総理大臣・安倍晋三:(安倍晋三氏の英語演説)
http://h-takamasa.com/Blog/?menu=%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%83%bb%e7%b7%8f%e7%90%86%e5%a4%a7%e8%87%a3%e3%83%bb%e5%ae%89%e5%80%8d%e6%99%8b%e4%b8%89
☆☆☆☆☆

⑤政経関連で、私が一貫して言っていることは今回の世界連邦樹立だけである。
世界連邦、世界統一軍の樹立…これだけを主張しているだけである。

後に安倍晋三批判をせざるを得なくなったのは、全て、彼が火の粉をかけてきたので、その火の粉を払っただけである。
今、菅総理批判はしていないが、安倍晋三批判も2005年頃から2016年G7まで、実に12間していないのに等しい。その上、小泉内閣以前は安倍晋三の名前も顔も知らないため、批判どころか名前もだしていない。

人を脅す場合には何か目的をもって行うものであるが、サッパリ分からないのである。
ちなみに、こうした現象は駿台予備学校講師時代からあった。
かなり脅されたが、どうして欲しいのかサッパリ分からない。

訴訟をするな。未(いま)だにしていない。間もなく被害発生から40年近くとなる。
駿台を辞めよ。駿台はとっくの昔に辞めている。
駿台の女性に手をだすな。駿台職員女性とは誰一人デートもしたことがないし、指一本ふれていない。更に、会話も一人当たり6年合計10分程度であり、全て人前の会話である。


この延長が40年近く続いている。
人を脅すときには何か目的をもって行うものであるが、サッパリその目的が不明である。このままでは死ぬまでわからないであろう。(日本のフィクサーME登場の布袋さんのモデル)TNさんは、彼の生前に「人間違いが原因」と言っていた。


話を元に戻そう。
私が一貫して、政経で主張しているのは世界連邦樹立、世界統一軍樹立である。
次に、今回の話であるが、皇室🆚官邸の争いに巻き込まれた疑惑があるが、何のことかサッパリ分からない。
私の上京で誰かに、官邸の一部はデマを飛ばされていた疑惑がある。
この日の夜もそうであった。


三鷹の後、再度早稲田に戻り、その夜のホテルの話を次回しよう。
赤関連デマもいずれ批判しよう。特に翌日の早稲田の不自然な話も次々回記そう。
しかし、赤か否かではなかろう。
赤木俊夫氏は、自民党支持者であり、購読新聞は読売新聞であった。その彼に対しても見殺しどころか圧力を加えた疑惑がある。赤木俊夫氏は名字は赤でも赤(思想的には共産主義・社会主義)ではないと聞く。
ちなみに、赤かどうかは思想良心の自由であり、出自と同様にそれを探しまくること自体が差別であり、人権侵害である。
ちなみに、私は赤よりは黒(黒幕=フィクサー)に近いと言いたいが、実際には無職、即ち、無色である。だから党派中立・宗派中立と随所に記載している。

私に対しても、御乱心なされたのか、デマに惑わされたとしか思えない。
この問題も、関連の話を自伝類として順次掲載をしていくため、遅くとも、本年末には分かろう。挑発をされれば、その公開が遅れ、誤解が長引くだけである。何もせず、何も挑発もせずにおけば、全貌はより早く分かるであろう。


ともかく、私が一貫して主張しているのは世界連邦と(強力な兵器と膨大な人員からなる実際に行動する)世界統一軍なしでは、世界の平和の維持は不可能であるし、世界から戦争を完璧になくすことはできない。逆に樹立すれば、世界の軍縮は一気に進むである。

三鷹世界連邦平和像:2017/11/26撮影:📷№17-070-051ーGousei_(合成・レタッチ写真)

 

次回、夜の早大から半徹夜での皇室🆚官邸尋問…とその結末

(2021/05/11 23:48 追加)

三鷹を離れる頃は、18時前となっていた。この時間では、11月下旬は外は真っ暗となる。

三脚がないため、後は私のオリジナルであるピンボケ技法をこころみた。必要なシャッタースピード、ISO 感度を設定すると、手振れをすることは必須である。そこで、逆にピンボケで手振れをカバーする技法である。同時にピンボケのため、ISO感度を限りなくISO100に近くし、この場合はISO200とし、露出はピンボケのため手振れ可能でシャッタースピードを落とし、同時にピンボケのため絞りも開放に近くして、露出を合わせるというオリジナル技法である。

📷№17-070-111 11-26_1741-1:17時40分にも拘わらず真っ暗

その後、早大に再度戻る。19時頃である。三脚がない以上もう無理である。

今度は逆に、ストレート写真をねらってみた。シャッタースピードを1/8秒とし一か八かカバンにカメラをおしつけセルフタイマーか無線撮影である。シャッターを押すと、その衝撃でカメラブレが起こるのを避けるためである。

三脚なし、真っ暗。シャッタースピードを1/8秒とし一か八かカバンにカメラをおしつけ世フルタイマー撮影。17-072-038 11-26_185934

一応、それでも、上記を下記の如くレタッチしてみた。

17-072-038 11-26_1859c_03

昨日から一睡もしていないため、もう体力の限界であった。

風情ある都電に乗り、ホテルのある大塚を目指す。大塚についたのは19時40分頃であった。その後、村の消息を知るため我が家に電話があったかどうかの確認、次にコンビニで弁当などを買う。(これがこの日初めての食事と思う)。

それでも、この日は遠方の岡山県美作から来たが、①道中、②靖国、③千鳥が丘戦没者墓地、④皇居、⑤早大、⑥三鷹・世界連邦平和像(武蔵野市)、⑦再度早大と撮影ができた。

すると、この夜から、延々と催眠独り言開始をやられる。一部は本当に聞きたい事があったのかもしれないが、後は、フィールドワーク妨害であろう。

当然、前日一睡もしていないから、本当なら即座に寝られるはずである。だが、その妨害をやられた。これは特に2015年5月の野麦峠への旅で頻繁にやられた手口である。

手口はこうであった。

20:40頃か?

コンビニで購入した食事をしている途中で睡眠薬でも入っていた如くバタンと気づくと寝ていた。

それは前日一睡もせず、これだけ行動したのだから当たり前。ところがそうではなかった。

疲れており、さらにバタンであるが、たった10分で目覚めた。記録には20:50頃目覚めとある。

この日トラブルはなかったにもかかわらず、動機なしで、突如独り言が開始する。終了時間は実に翌朝午前5時過ぎである

晩秋は明るい時間が少ない。そこで、早朝6時くらいにおきて、即行動を開始しないと、即座に暗くなる。

ところが午前5時就寝では午前6時に起きる訳にはいかない。何故ならばその前は一睡もしていないのである。そこでインフルエンザや風邪にひっかかるとフィールドワークはご破算となるため寝なければならない。すると起床時間が遅くなる。それでも翌日は午前9時起床とした。その後で身支度や出発準備をすると出発時間はずれる。

その結果、東京二日目は東京にいるにも関わらず、早大と井の頭公園にしかいけない羽目となった。

そして、この手口は東京を離れるまで続く。1996年長崎でも延々とこの手口をやられ、予定行動は半分程度となった。野麦も同様であった。

偶然ではないのはこの写真の下の文書を読めば分かる。

写真№17-072-040 11-26_193819

 

それでは、フィールドワーク潰しのための出鱈目問答かと言えば、それだけではない。

この夜は、突如、「官邸🆚皇室について知っていることを言え」という暗示であった。

何の契機もなく、ただ食事をして寝ようとするや、睡眠薬か何かで10分寝かされ、突如、言う予定もない「官邸🆚皇室」の話である。

なお、この問答は次の一言で打ちきりとなった。その後は何の意味もない、覚えてもいない独り言である。

次の一言とは以下のことであった。

知らぬが仏という言葉をしらないのか。本当に言ってしまうぞ。いいか。これは保守対革新の争いではない。リベラル対保守の争いでもない。左翼対右翼の争いでもない。保守対保守の争いだ。その争いに皇室が巻き込まれた疑惑がある。今諸君らに指示をしているグループが保守Aとしよう。だが権力闘争で保守Bが勝利すると、諸君らは左遷されるぞ

さらに、東京都の警察レベルが対応できる問題ではない。それでは諸君らは皇室の味方をするのか、保守Aの味方をするのか、どちらをするのだ。それでも聞きたいか…

すると、私が持参したスマホ二台(一台は古く、かつSimをいれずにWifiのみと、オーディオコンポ代わりに使用)とタブレットの全てで画像がうつらなくなった。Wifi接続でもである。

ともかく、これで、問題は一段落したと思ったが、その後も意味のない独り言を言わされたと思う。

ちなみに、私自身も皇室🆚官邸の争いの内容は知らない。多分、朝日新聞などの方が詳しいだろう。ただし、彼らは保守Aが権力にいる限り、恐れて絶対に報道はしない。

私の方は本当に何もしらない。はったりである。もしくはハッタリに近い。

第一、上京目的は上に書いたように、起業最後の賭けで、母校早大への営業にあった。

なお、東京二日目も、奇妙なことが連続して起こる。早大でも、井の頭公園でも。それらは次回記そう。

★次回は、超多忙のため、現在書きすぎのため、5月13日ではなく、5月15日頃を目処とする。

6回目の追記:2021/05/15

【2017年11月27日日程】
4時か5時過ぎ頃就寝)
9:00頃起床→軽食(ホテル内無料)
9:30出発準備
9:45ホテル発。
10:00都電大塚
10:20頃都電早稲田
10:22早稲田撮影開始
(晴天青空で紅葉もはえるが、何故か突如、撮影気力がなくなり、曇ってから本格撮影)
13:35頃:早大撮影終了(昼食は抜き。食べる時間なし、即、井の頭公園へ)

14:28頃 井の頭公園撮影開始
16:06頃 同上公園撮影終了。


11月26日睡眠時間ゼロ
11月27日睡眠時間3時間余り。

それでも、出鼻をくじかれ、井の頭では16時過ぎから曇りの関係もあり、撮影は難しくなっていた。更に疲労もある。

11月27日の出来事は五点あった。
一番目(妨害)独り言催眠類多投での睡眠攻撃での行動時間制限。
二番目(妨害)皇居付近撮影不可と皇室に絡めた挑発
三番目(妨害)北村西望記念館=私の滞在期間中のみ閉鎖
→北村氏は世界連邦平和像・長崎平和祈念像作者。
四番目(?)学生運動時代へのタイムスリップというか奇妙な挑発。
五番目学歴問題に絡む早大での挑発。

今回は四番目のみを記す。次回が五番目である。そして、この二つが、どうも人間違い説仕掛け人とデマが絡んでいた疑惑があった。東京での一連の人間違い・家間違い…騒動も徐々に記す。このデマ問題は皇室問題に絡めた疑惑もあった。

今回は四番目から入る。
今回のシンボル📷。

🐻早稲田大学:2017年11月27日12時18分頃撮影:📷№17-073-150

タイムスリップして、いわば化石の如(ごと)く昔を見た。
というのは、反帝学評と言ったと思うが、大昔の学生運動を思い出す人間をみたからである。マイクを持ち演説をしていた。

反帝学評の正式名称を今調べると、「日本社会主義青年同盟解放派」とある。早大にこうしたグループがいたのであろうか。私が東京時代1977~1981年(正式在籍は1977年から1980年)は見たことがない。
今、調べると早稲田は革マル派という新左翼を自称するグループが主流とある。噂(うわさ)では文学部を中心としていたそうである。早大はマンモス大学であり、学部ごとに違う大学の趣があった。

私は政経学部、正確には政治学研究科に所属していた。そこで、大学院時代は学生運動とは全く無縁であった。研究とバイトのみである。
こうしたヘルメットをかぶった学生を見た記憶はあるが、大学院当時、そうした学生は私に見向きもしなかった。私も見向きもしていない。

反帝学評…で、関西学院大学時代をふと思い出した。ちなみに、2017年とは関学卒業から42年経(た)っている。
そこで2017年早大撮影では撮影が忙しいため、そのときは余り深く考えなかった。ただし、撮影角度の関係で、このマイクをもってアジっている学生のすぐソバで撮影もした。勿論、この学生は私には見向きもしなかった。私も、彼のすぐソバで撮影を続行した。

誰かが、誰かのデマに騙(だま)され、何かのお遊戯をしている如(ごと)く、チンプンカンプンであった。後に考えると、要するにデマが飛んでいた疑惑があった。そのデマはひょっとすると、皇室に絡めたデマと同根の疑惑があった。そこで少し記しておこう。


私が大学時代(1971年~75年)は、自治会再建運動に参加したことがある。非暴力派である。そこで、かなりの大役(関西学院大学全学部のリーダー役)を任された時期(1972年のみ)もある。
その頃、ヘルメットをかぶり、一部武闘闘争していたグループに睨(にら)まれたようである。
ことの経緯は多分こうであろう。
ヘルメットをかぶったグループの学生が、ヘルメットをかぶる武装派をやめ、非暴力の自治会再建運動グループに入ってきた。私が事実上の指揮者に等しい頃である。だが、その学生が後に、再度、非暴力グループから武闘派へ戻った。
 そこで、私を関学のリーダーとの誤情報を武闘派グループに与えたのであろう。誤情報とは、私はバイト三昧のため、もはや大学3年前半(1973年)の頃から、リーダーではなかったのである。

さらに、最近、「赤」挑発があるが、私は大学時代は「赤旗」は購読していない。要するに、私は関西学院大学に所属する日本共産党員は一切知らない。誰が共産党員で誰が共産党員ではないかも一切知らない。未(いま)だに知らない。
ごく一部の公にしている人(例えば、市議会議員等)を除けば一切知らないのである。

先の非暴力自治会再建運動派には、日本共産党員の人、民青の人、いずれにも属さない人がいた。だが、先の武闘派から非暴力派に移動してきた諸君らも、多分、日本共産党員ではなかったのであろう。私も同様であるため、想像である。

だが、彼ら・彼女らは私が関西学院大学のリーダーだから、日本共産党員に違いないと錯覚して、武闘派諸君に誤情報を伝えた疑惑がある。私は関学学生当時(1971~75年春)には赤旗すら購読していなかったのである。

武闘派諸君に数度拉致されたことがある。ただし、危害は受けていない。それでも長期拘束された。
彼らが何かを言っても、「私は日本共産党員でもないし、もはやリーダーではない」とはプライド上言えない。それを言うことは、現在、私の周りで戸籍問題の強調があるが、出自を言わされるのと同様に人権侵害と思ったからである。
アメリカでマッカーシズムが和え狂ったときに、もし、当時共産党が合法ならば(私はアメリカ共産党が合法か否か知らないが)、共産党員であるか否かを回答するのは、プライドが許さないと思う。

本来、祖先が、Africaから来たか、ネィティブAmericanであるかどうかは、他人に尋ねられて回答すべき事項ではない。強いられれば人権侵害である。自分から、プライドをもってい言う分には構わない。

そこで、プライド上回答はしていない。
回答を開始したのは、昨年のアメリカ大統領選挙で、我が友が不利になったならば困るのでやむを得ずであった。本来は回答すするのはプライドを損なう。
なお、先の拉致されたのは多分、1973年頃と思うが、解放の条件は、彼らの集会に来てほしいであり、拉致から逃れるため約束をしてしまったため、守る必要ないが、私一人で彼らの集会に行った。彼らのリーダーの一人が一定時間に、「約束遵守してくれたので、もう帰宅して結構」と言ったので帰宅した。
当時は、武闘派同士が寝込みや、下宿を襲撃していた頃(例:革マル🆚中核)であり、私は先の如く、(武闘派に移動した諸君から)私の下宿からゼミから全部バレたのでどうなるかと思ったが、大学時代でも無事であったようである。

ちなみに、私が所属していたのは非暴力派のため、私の所属する集団が彼らの住まいを襲うことはない。それもあり、卒業し、一年程度で彼らとの対立関係は御破算となる。
だが、大学時代は警戒はした。後に、私と無関係の人間同士の小競り合いがあっても、彼らは、もはやリーダーではない私をリーダーと錯覚しているのであるから。しかも、その小競り合いの情報は、もはやリーダーではない私には入ってこないため、尚更ややこしいことになっていた。
ゼミの卒論を彼らが支配している場所で印刷などは不可能であった。何故(なぜ)ならば、非暴力派の誰かが武闘派の人間と小競り合いか何かをしても、私を最高責任者と誤解しているため、何が起こるか不明であったからである(私が播いた種ではなくても私に危険がある可能性があった)。後には、彼らが所属する関学自治会室に、火炎瓶があったときもあると朝日新聞の報道で知った。

しかも、私がリーダーを辞めた後は、武闘派の人間が非暴力派に変更し、再度武闘派に戻らないため、彼らがいつまでも誤解している可能性があるから参った。
同時に、私がリーダーではないと言うことはプライド上不可能である。私がリーダーだったのは1972年のみである。来年で50年目の大昔の話である。
読売新聞の渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年5月30日 -:株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆)東大の日本共産党細胞のトップであったが、彼がその職を辞して半世紀後に、彼を「赤」だと弾圧を加える人がいるであろうか。
多分1947年頃と思うので、1997年頃に、渡部氏に「赤だ」と弾圧を加える人がいるであろうか。
あるいは後に記す、田中清玄氏に、(50年後と言えば)1980年代に「お前は赤だ」と弾圧を加える人がいるであろうか。

私の場合にはそれをやられた疑惑がある。根拠は誰かのデマであろう。
しかも、渡部氏が東大のリーダーならば、私は関学のリーダーと一年ほどなっていたが、私は渡部氏と異なり日本共産党員ではなかった。赤旗すら購読していなかった。
出自同様に、こうした経歴は記述しない方がよいが、渡部氏が自分で言ったので、私も書いてよかろうと思い、一例で記しただけである。

渡部氏以外でも相当知っているが、本人が明白にしない限り、私は書かない。書けばびっくりする人物も多数いよう。
だが、それにしても古い。

今から50年(半世紀)前の話である。
いわば、1995年頃に、アメリカのビジネスマンが、日本の経済人に、あなたは日本国軍隊に所属したかどうかと尋問するが如(ごと)しである。
実際に、関学を卒業し、二、三年した時点ですら、関学に行っても、ヘルメットをかぶった学生はもう誰も私を見向きもしなかった。
1970年代後半に恩師(後藤峯雄先生)を訪ねて何度も関学に行っているが、私が関学内を歩いても、もう誰も見向きもしていない。1977年ですら、もう44年前である。44年前に見向きもしないものを今更見向きをする訳もなかろう。

余りに無茶苦茶なデマのため、そのデマに気づくのに何年もかかった。ちなみに、大学時代、多分、私が潜在的に党派中立志向(良ければ誰とでも付き合う)とか、私の仲の良い先輩に?がつき、(先の武闘派→非暴力派→武闘派。私は非暴力派であるが、非暴力派も幾つものグループが存在であり…)日本共産党の情報が漏れることを恐れて声がかからなかったのであろう。関学内では入党呼びかけや声は私には一切かからなかった。
★2000年に我が家訪問の恩師・知人…と…と。更に萩では(共産党から除名された)野坂参三の墓参り、志賀義雄の生家も研究上探し、…伊藤博文の碑にも…安重根記念碑にも…という性格もあり…で、秘密遵守上敬遠されたのであろう。これらもいずれ作品として紹介するため、その時に更に分かろう。

もっとも、赤旗は1975年中頃から1981年春まで購読したことがある。1975年から半年程度のみバイト兼用で配達したこともある(通常の商業新聞配達よりは一部当たりの日当は高い。全盛期は日曜版含めて350万部であり、地域によれば結構なバイトとなる時代であった。)
しかし、その頃は大学院受験と、研究とバイト中心であり、学生運動とは無縁である。
それ以降は購読していない。それ以前も購読していない。だが、購読するかどうかは出自同様にプライバシー問題であり、記述すること自体がプライドに反する事項である。


後に、集団的正当防衛権問題への疑問、さらには下記に記した理由で、1981年以降は完全党派中立となっている。そこからでも、もはや40年となる。
出自を問うDiscrimination(差別)主義者のみが、こうしたプライバシーを脅すのである。
これ以上は詳細に記す必要はない。下記「党派中立への道」で十分である。
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【党派中立】№213 駿台事件から党派中立第2段階(心情的党派中立)へ、更に第3段階へ
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1413/
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兄弟・姉妹・親戚となると…更に狂っているのかとなる。全て別人格であるだから、与謝野馨氏が麻生内閣時代に安心社会実現会議委員に宮本太郎氏(日本共産党書記長の宮本顕治氏の長男)あてたことがある。彼が日本共産党員であったかどうかはプライバシーの問題であり、他人が詮索することではない。与謝野馨氏が見本を示している。
佐々淳行氏とて、姉さんの(市川房枝秘書)紀平悌子は革新派に近いであろう。
今の政治家が情けないことこの上ない。
それ以外に多数事例を知っているが、プライバシー権問題から、私は書かない。

なお、日本共産党とアメリカ共産党は、イギリス労働党と北朝鮮労働党と同様に違いがあるが、(サムエルソンの同僚で友人の)都留重人氏もどちらかの共産党員であったと自分から述べている。もっと多数事例があるが、記述して良いもの(原則として自分で公開しているもの)のみ、いつか紹介しよう。ちなみに、都留重人氏も、プライバシー問題のため、詳細は書いたり、言うはずがないし、その必要もない。
それにしても発想が古い。治安維持法かマッカーシズム時代にタイムスリップした如くであり、馬鹿馬鹿しく書く気も当初起こらなかった。その前に何の挑発か何年も不明であった。

今の早大総長の田中愛治氏も元共産党・田中清玄(後の日本のフィクサーの息子)である。彼と私は早大時代に本の少しの差で入れ違いであった。


それでは今、私が何を考えているかを書け。逆だろう。
私が少しでも暇を見て書こうとすると、玉葱がどうだこうだ、ジャガイモがどうだこうだ、柿がどうだこうだ、車がどうだこうだ、墓の水がどうだこうだ、山の落ち葉がどうだこうだ、大根がどうだこうだ、…更には、不可思議な形で我が家の木が枯れ…等々で書くのを妨害しているのは誰だとなる。書かれると余程困るのであろう。

長いので、後日、資料を追記し、公式ブログにでも収録しよう。

7回目の追記:2021/05/19 21:37(次回8回目の追記は5/23記述。その後はPart-3館林となり、ページをあらたにします)

🐻早稲田大学:2017年11月27日11時50分頃撮影:📷№17-074-017

さて、早大に行くと過去なかった奇妙な挑発があった。
学歴に絡めた挑発である。
絡めるも何も、私は早大大学院を修了しているため、他大学の学生の挑発ならば分かるが母校・早大学生が挑発したのならば意味不明である。

私が関学から早大へ進学なので…。
そこまで早大生の発想の次元は低くなかろうと信じている
日本では大学と大学院は同一の人が多いが、アメリカなどでは、大学と大学院はまず別の学校に移動する。同一の事例は滅多(めった)にない。大学がHarvardでも同様である。
私の知人も慶応卒(多分4年)、早大大学院(多分5年以上)、後に名古屋大教授…こうしたケースはざらである。

それでは彼の母校はと言えば、慶応も早大も母校である。
京大や名大を卒業して早大大学院に来る人もいればその逆もいる。
関学から早大も同様である。その逆もある。
何の挑発だったのであろうか。
ただ気になることは、その挑発を計画した人間が、私の上京と皇室問題(巷では皇室🆚官邸)とを絡めた疑惑があるため、やむを得ず、書いているだけである。
本来は、次元が低いというよりも、国際社会の教育に余りにも疎い挑発は無視するであろう。阿呆(あほ)らしい。

さらに、学問は常に今が勝負である。
引退するまで、出身大学、大学院は無関係である。
現役を引退した後でそうした飾りの話をするのならば分かるが、私はまだ起業を目指して現役志向である。
現役や現役志向の間は、毎年の結果が全てである。
学問論についてはいずれ記そう。

早大生の自発的挑発とは思えない。
早大もそこまで次元が低くはなかろう。
また、私が駿台講師時代に京大卒・東大卒の人間と競っていたころに早大に行くと、誰も無視か借りてきた🙀の如(ごと)しであった。
それどころか、1998年の早大訪問ですら同様であった。
そこで誰かの謀略であり、その謀略を組んだ人間が皇室問題に私の上京を絡めたとなる。

また、早大最後の日には誰かが(あてつがましい形で)英語で喋(しゃべ)っていた。
私に「お前は余り英語はできないだろう」とその挑発を後に思わされた。
馬鹿馬鹿しい。
現在の私は世界の注目を浴びており、相当語学が堪能な人ならば、私の内容を世界に翻訳して伝えてくれとなる。
私が英語で世界の情報を追っているのではなく、私が何語で喋ろうと世界が私の言動を追っているのである。そんなことも知らないのであろうか、と後に呆(あき)れた。

英語について三点記す。
①某メディアが東大卒業生があかす英語取得の方法。
東大生ならば英語ができると早合点するのはアホかとなる。
嘘(うそ)と思えば、東大卒の国会議員に英語で喋(しゃべ)らせたり、英文を書かせたりすれば即座に分かる。
英語に堪能なのは大学に限らず、日々英語に接している人である。東大生よりは三流大学の英語クラブの学生の方ができよう。
「英国では▼▼でも英語を喋る(昔使用されていた▼▼は差別語で放送禁止用語らしいため▼▼で表記。)」(Even a beggar in England…)

比較的悪い感じを持っていない人(東大卒)に問う
自民党・塩崎元官房長官「あんた、英語できる」
立憲民主党・岡田克也「岡田さん英語堪能なの」
共産党・志位和夫氏「志位さん、英語できると誰かに自慢したことがある。その前に英語できるの…」
公明党・山口代表「英語できますか」

東大卒の与謝野馨氏が生きていれば、喜んで教えてくれたであろう。
東大生が英語できるって、…東大卒のインテリが全員😂。
ときには泣き笑いする。
それでは何故、私が能開大で英語を担当したか…。「法学と経済学」を担当で…と招聘され、是非専任で…の詐欺話は記せば長くなるので後日。当然学校側からの依頼であり、私の方から先に要望した話ではなかった…後日。


②私は英語の本格学習は大学院修了後に何度かした。1989年からとか1999年から…。そこで私の語学力は早大の知人は知らない。おまけに2005年頃から完全に近く、英語学習を止めた。止めて15年たてば…。止めた理由は使う目処(めど)がないので時間の無駄と判定した。もっとも当時のレベルでも、世界のレベルからみれば、当然、私は英語は余りできない。
そこで常に「私は英語は少しは分かる」とか「英語は余り分からない」と言っている。これ以外の言動をしたことは生まれて今日まで一切ない。

③私の原稿「偏差値のイドラ」「毒饅頭(まんじゅう)の教育論」の中で「言語帝国主義」なるものがあるのでそれを参照されたい。関連としては下記を勧める。

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安らぎBlog 毒饅頭教育一回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕きたい理由」(前編)2015/4/25
http://h-takamasa.com/Blog/?p=372
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安らぎBlog:毒饅頭教育二回 このプリントを配付するにいたった経緯。2015/4/25
http://h-takamasa.com/Blog/?p=379
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安らぎBlog:毒饅頭教育三回 「英語のできる人間は優秀であるという発想を打ち砕きたい理由」(後編) 2015/5/2
http://h-takamasa.com/Blog/?p=435
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安らぎBlog:毒饅頭教育四回 李登輝元総統来日に際しての解説。2015/5/21
http://h-takamasa.com/Blog/?p=565
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余りにも次元が低いのでこの話はここまでとする。
それでも、母校関学・早大の学生に言っておく。
人間は現役を退くまで、今が全てである。今の実力と技術が全てである。
卒業学校は無関係である。
そうした肩書は現役を退き、記念切手の趣味同様に見るがよい。
それまではプロ野球選手と同様に今が全てである。

語学と言えば、早大大学院時代に政治学ドイツ語購読の授業一緒した飯島正蔵氏(早稲田大学政治経済学術院教授。早稲田大学政治経済学部学部長)が亡なれたことを知りビックリしたことを覚えている。帰宅後に追悼文を書かせていただいた。ドイツ語は余りではなく、全くできなかった。(@^▽^@)
当時大学院生のドイツ語担当であった清水望先生(早大名誉教授:1924年~2014年)も笑っていた。😂、と。

この話は馬鹿馬鹿しいのでここまでとする。
挑発計画の主の知能が分かろう。だが以下のため念のため記したのである。
次回は、井の頭公園での、平成天皇とのニアミス、及び、皇室に絡められた話などを記す。

8回目の追記:2021/05/23 00:32(次回からはPart-3館林となり、ページをあらたにします。掲載予定は5月27日)

井の頭公園:📷№17-076-051 11-27_153637:2017年11月27日撮影

井の頭公園訪問の目的は、北村西望関連の彫刻などを撮ることであった。紅葉を撮りに行ったのではない。
北村西望は、私がテーマとしている世界連邦平和像の作者であるのみか、長崎平和祈念像の作者でもある。ましてや、三鷹・武蔵野市にある世界連邦平和像のみか、大阪城公園内にある世界連邦平和像も北村西望の作である。
勿論、島原にある北村西望記念館には1996年と2016年に脚を運んでもいる。

ところが、下記の如(ごと)く、北村西望関連の施設は「11月26日から30日までは休館」と言われた。11月26日とは、私が上京した日である。11月30日とは私が東京を離れる日である。こんな偶然があろうか。
さらに、既に述べた如く、前日は皇居付近の撮影を阻止されてもいた。
当時のフィールドワークメモに次のメモをしている。

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一番の目的であった、北村西望の作品を展示している井の頭自然文化園彫刻園(いのかしらしぜんぶんかえんちょうこくかん)であった。しかし、11月26日から30日までは休館と言われた。12月1日から開館とのことであった。
大きな目的の一つが、北村西望の長崎平和祈念像作成過程を見ることにあった。
だが、休館であれば仕方ない。
11月30日に帰路に就くが,一日延期することは、後に述べる寺問題・予算問題・宿問題で難しい状況にあった。しかし、迷ってもいた。


今回の撮影で重要なのは①早大、②三鷹世界連邦平和像、③井の頭公園の彫刻園、④田中正造関連地、⑤小泉八雲・夏目漱石の墓など、そして、実は⑥皇居も狙っていた。
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「フィールドワーク・東京」(2017年11月27日)の記録―2
http://h-takamasa.com/Blog/?p=11581
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ともかく、来た以上、井の頭公園の撮影は北村西望抜きでおこなわざるをえなかった。だが、起床時間の関係で撮る時間が少ない。更に睡眠不足から頭が十分働かない。
この日の天気は曇りであったが、それ以上に応えた。
勿論、次の予定地は断念となった。
そして、ホテルに戻るや再度催眠独り言で延々と時間をつぶされ、翌日の館林訪問に大きな支障を来すことになる。

この日の被害は五点あった。その内、二点は早大のため、残り二つは以下であった。
一番目(妨害)独り言催眠類多投での睡眠攻撃での行動時間制限。
二番目(妨害)皇居付近撮影不可と皇室に絡めた挑発
三番目(妨害)北村西望記念館=私の滞在期間中のみ閉鎖
→北村氏は世界連邦平和像・長崎平和祈念像作者。

ちなみに、後に知ったが、平成天皇が井の頭公園を2017年に訪問されていた。その日は、私の重要な番号11・22である。即ち、11月22日である。それも2017年11月22日である。
当初の上京計画は11月19日上京、11月23日の深夜の夜行バスで帰路であった。すると、場合によれば11月22日に私も井の頭公園に同日に行っていた可能性があった。まさにニアミスであった。
撮った写真も下記の如く、全く同一場所であった。そのことは後に知った。
ところが、この種の皇室絡みの偶然が11月28日館林市、11月29日佐野市と連続して続くのである。

私の上京目的は、先の如く、起業最後の賭けでの早大行きであった。ところが、誰かがXの嘘(うそ)で騙(だま)されたのではなかろうか。
その結果、妨害だらけであった。
さらに、皇室🆚官邸の絡みに巻き込まれたようである。
完璧な誤解というよりも、デマからであろう。
その結果、私が帰宅して間もなくの、12月12日から秋篠宮眞子氏の婚約騒動をマスコミが報じることになる。
1212は、私の重要番号1122につぐ、重要番号である。

2013年12月のソウル訪問は(私が全く名も知らなかった)張成沢(チャンソンテク)事件に絡められ、私が帰宅した翌日の12月12日にチャンソンテク氏が処刑されている。
2017年は全く同日の12月12日から、マスコミの一部が秋篠宮氏関連の報道を開始する。

当初は、私に沈黙を強要するための脅しかとも考え、特に皇室問題は一切口を挟むのを回避した。私が一言でも皇室関連について言動すれば、秋篠宮眞子氏の婚約はご破算にしてやると言わんばかりの恐怖を与えられた。しかし、相当期間をおいた頃には見かねて、秋篠宮氏の名も眞子氏の名も出さずに、後には一般論としてのみ憲法24条(結婚は両当事者のみの合意)だけを強調することになる。


また、2017年9月以降は、米朝首脳会談に向けて各種動きを開始していたため、その阻止が目的だったのかもしれない。この話は日本の「フィクサーME・パート5」で記すことにする。

次回からページを改め、同時に一ページ当たりの字数も減らしてゆとりある書き方をする予定でいる。

井の頭公園:📷№17-076-051 11-27_150905:2017年11月27日撮影

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