№001-01・仏像に愛を見る(1)
2014年12月27日・東大寺にて!
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《◆―1・仏像に愛を見る:原爆犠牲者慰霊碑と仏像》
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昨年末、拙著「戦争と平和と人間に想う」(広島編)の最後に、「教師と子どもの碑」の教師の像の写真を掲載しました。
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下の奈良の大仏の写真も見て下さい。
これが、仏像なのです。「戦争と平和と人間に想う」で紹介しました教師と子どもの碑の像と両者の手は同じ手なのです。
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1)教師と子どもの碑(1・写真№13-058-16)
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「薬師寺金堂薬師三尊像は何文化時代ですか」。
「この写真の仏像は何ですか。」
「東大寺法華堂月光菩薩です。」
こんな馬鹿な勉強はやめましょう!。
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重要なことは、仏像を見て、如何に苦しみから逃れられるか、他人に優しくなれるか、……というわかりきったことが今回のテーマです。
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まず、下の写真(東大寺大仏の手の写真)を再度見て下さい。教師と子どもの碑の像の手の写真と同じだということが分かるでしょう!
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写真は故意にピントがあっていない物を使用しています。その理由は後で記します。
(2・写真№14-44-129-L)
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★教師と子どもの碑と手の本質が同一を分かり易くするために、もう一枚掲載しました。
(3・№14-44-140-T)
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《◆―2・仏像に愛を見る(大仏の手、手、手……)》
あなたが生まれた時、お母さんとお父さんは言っていました。
「なんてかわいい子なんだろう」。そして抱きしめました。
その時の手の形、それが仏像の手なのです。
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あるいは、あなたを抱いて、歌っていました。
「お~よしよし……」「ねんねん……」と子守歌を。その時の手。
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しかし、あなたが病気の時、救急車がなかった頃、大急ぎで病院まであなたを抱いていきました。
「急患なのよ」、と。それも仏像の手です。
(4・写真14-044-128)
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電車の中であなたを抱いていた時、電車が揺れてもあなたを落とす物か。その手、それこそ仏像のてです。
(5・写真№14-044-135)
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お父さんもあなたを抱いていました。不審人物が来た時、「ならず者、我が子に近づくな」、強くもないお父さんが言った時の手。
これも、また、仏像の手です。
(6・写真№14-44-133)
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《◆―3・仏像に愛を見る(その3・仏像のタイプ)》
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仏像は基本的に次の4つ(広義には5つ)しかありません。
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①如来→昔型のお父さんの愛を表現。慈悲の慈を表現し、一度や二度の念仏では極楽へ連れていかんぞという厳しさを表現しています。
(例:釈迦如来や奈良東大寺の大仏)
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②菩薩→昔型のお母さんの愛を表現。慈悲の悲を表現し、お母さんのように何を言っても聞いてくれる優しさ。
(例:中宮寺の弥勒菩薩)
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③明王→子供が言うことをきかない。しかし、命にかかわるので必死で止めようとする親の形相に似ています。
あるいは火中の子を救う親の形相を表現しています。
例えば、子供が麻薬に手を出そうとしたとき、「私の命にかけても、お前に麻薬はやらせない!」とすごい形相で子供に立ち向かう時の表情。
これも親の愛。
(例:醍醐寺の明王・不動明王)
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④天部→仏の守護神(例:梵天)。
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以上の4つです。ただし、祖師や羅漢などからなる⑤その他を一般的に付け加えることもあります。
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簡単に言えば、①父(祖父)の愛、②母(祖母)の愛、③緊急時の親(祖父母)の愛です。
それを頭にいれて仏像を見ると見方も違ってくるでしょう。
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勿論、私の解説だけを頭にいれていたならば、俗に言う偏差値は下がるでしょう。
逆に言えば、偏差値なるものの出鱈目(でたらめ)さです。
これを「仏つくって魂いれず型教育」といいます。
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仏像を見て、苦痛から少しでも逃れ、同時に他人(ひと)に少しでもやさしくなれることが本道なのです。
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それが、私が今日の詰め込み型文献・教材を否定して、旅を教材にした理由です。
同時に、昨年、広島以外にも奈良に何度か行った理由でもあります。
これらは拙著「旅に心を求めてー教材編」第10章仏像に愛を見るに記しています。
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私の教育に関する考え方に関心のある人は、『同上書』ではないですが、拙著『旅に心を求めて・不条理編(上)』(安らぎ文庫:Kindle版・百円){私のHP参照}を読んでいただければ、理解していただけるでしょう。
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なお、仏像は作成者がおり、その作成者の人間性と芸術性が備わったときのみ、仏像の醍醐味がでると考えています。
同時に、それを受け入れる側の人間性や個性もあります。だから全ての仏像が必ずしも良いわけではありません。そ
れは人間を見るときと同様に考えたならばよいでしょう。