野麦峠:撮影日1989/06/26-29:旅に心を求めて№6-1:野麦への旅

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野麦峠:撮影日1989/06/26-29:旅に心を求めて№6-1:野麦への旅

【旅に心を求めて・野麦の旅掲載目次】ピンククリックで該当ページへ。
(序)旅に心を求めて№6-11989年野麦の旅の概要2017年5月25日掲載(このページ)
◎野麦再訪
(1)旅に心を求めて№6-2・松本まで[2015/5/22等]
(2)旅に心を求めて№6-3・松代大本営跡[2015/5/23]
(3)旅に心を求めて№6-4・善光寺[2015/5/23]
(4)旅に心を求めて№6-5・野麦峠祭り―1・登山[2015/5/24]→2017年5月26日掲載予定。(時間がくるまでリンクはしません。)
(5)旅に心を求めて№6-6・野麦峠祭り―2・祭り模様[2015/5/24]→2017年5月26日掲載予定。
(6)旅に心を求めて№6-7・黒部ダム[2015/5/25]
(7)旅に心を求めて№6-8・立山[2015/5/25]
(8)旅に心を求めて№6-9・富山[2015/5/25]

野麦の旅―今回、1989年野麦の旅の概要と、2015年野麦峠祭りのみ掲載。
全体の旅の詳細は本年末か次年度前半頃掲載予定。


今回の掲載は(序)と(3)である。残りは本年後半か来年初頭までに掲載できればと思っている。
突如、今回掲載したのは2017年5月28日(日曜)の野麦峠祭りがあるので、読者のみなさんに参加されることをお勧めするためである。
同時に、野麦峠の写真は「写真物語館・安らぎの間」に一部掲載していたが、写真物語ブログへ移動し、安らぎの間は「写真物語館・水俣」に変更への準備をするためでもある。

なお、詳細な旅の概要は以下である。

【野麦の旅概要】
(1)1989年野麦の旅
①1989年6月26日=岡山~西宮~石川県小松市迄
②1989年6月27日小松~白川・五箇山~高山~夜の野麦峠~安曇野で宿。
③1989年6月28日安曇野~雨の野麦峠~松代~善光寺~松本
④1989年6月29日=松本~黒部~糸魚川(新潟県)~岡山


(2)2015年野麦再訪の旅
①2015年5月22日(金):我が家→大阪→松本→松本城視察(宿・松本市)
②2015年5月23日(土):松本→松代大本営跡→善光寺→宿・塩尻市
③2015年5月24日(日):塩尻→野麦峠祭り参加→(前日の徹夜と日程変更手続で松本城撮影中止):松本宿
④2015年5月25日(月):松本→黒部ダム殉教者慰霊碑→富山城など撮影(富山市で宿)

⑤2015年5月26日(火)前日の半徹夜のため、帰路はどこにも寄られず、何もできず。


野麦峠:撮影日1989/06/26-29:旅に心を求めて№6-1:野麦への旅

岡山→兵庫→(大阪)→福井→石川→富山→岐阜→長野→新潟→岡山

どんな素晴らしい自然も天気とともにその姿を変える。

だが、思い出の地はどんな天気であろうとも、昔の思い出を蘇らせる。

そして思い出は時には心のオアシスとなる。


今回の旅行、永平寺に門前まで行きながら入れなかったこと、北陸~山陰のコースを通って帰れなかったこと、天気がいま一つであったことなど残念なことは数々ある。しかし、野麦峠、松代、黒部と思い出が残せたこと。映画・文献ー旅・自然ー旅の心ー(自分ー表現)ー授業という一つのラインの手がかりができたことなどで意義深い旅行であったと思う。

松代の項で書いたように、旅は人なり、旅は心なり、そしてそれが旅の心であると思う。

素晴らしい景色を見ることは自分の心を豊かにしてくれるであろう。

だがそれ以上に、自分の何かを見つらけれ、自分を表現することにつながる地、あるいはその心境、これらはなにものにもかえがたいものであろう。

それが旅の心であると思う。(※旅は人なり→その人なり、という意味)。

下記、イラスト地図は私・浜田隆政が1986年頃購入したワープロ(セイコーエプソン社)で1989年頃に作製したものである。

その後、イラスト作製能力は大きく向上したが、岡短という学校での労基法違反被害がはげしく、封印し今日に至っている。

自由の身になれば、イラスト作製関連の作品も作製予定でいる。

なお、本格的にカメラ撮影を開始したのは、1994年後半からである。

1989年はカメラなどには全く興味がないが、教材活用のため、やむをえなくコンパクトカメラ(確かキャノン)で撮影したものである

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1)1989年6月26日:岡山→神呪寺(甲山:西宮市)→(福井へ)→永平寺(福井)→小松(石川)

 

永平寺門前までいくも時間の関係ではいれず。

おまけに写真もとらず。

後日機会があれば訪れるかもしれない。

2)1989年6月27日:(小松)→A:庄川(富山県)→B:白川→D:高山(岐阜県)→(野麦峠)

 

朝4時半旅館をでる。

庄川をでてから白川、多分五箇山も通ったと思う。

そのあたりで珍しい家を見たので、好奇心から写す。

このあたりが後に世界遺産になるなどとは当時、夢にも思わなかった。

そこで以下の如く簡単な撮影。(まだ数枚あるが、いつか掲載するかもしれない)。

観光客など御覧の如く一人もいなかった。

ただ、のどかだと感じたのみである。

 

①のどかな風景とだけ思った。このあたりが世界遺産にとは当時思いもしなかった。

(島根県石見銀山も同様であった。)

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…旅行メモに書いたように、感情が途切れ、もはや感動はないだろうと思いながら道も分からずただ進むうちに、ふと見るとお助け小屋の標識が目に入ってきた。

このときの模様などは、拙著『旅に心を求めて―不条理編(上)』(Kindle版:百円){Kobo版からも間もなく出版予定}参照。

 

②道を何度も間違え、やがて棒が見えた。
車のライトで照らすと、野麦峠とあり。

コンパクトカメラで、三脚もなく、撮影技術もなかった。

しかし、撮らねばならないとの執念から、なんとか撮れた。

車のライトをあてたり、様々な工夫をしたことを覚えている。

なお、当時、道中手記に次のメモを残していた。

★★★道中記★★★

あわてて周りを見ると少し広い所に像が見える。急いで像に近づきミネの顔を、次に足を見る。

しんどかったであろう、辛かったであろうと思いながらもう一度ミネの表情を見る。

次に兄の辰二郎の足と顔を見る。よくこの坂を背負ってきたなと思う。

すごい兄妹愛だと感心する。美は悲しみの中にだけあるとは思はないが、

その中に力強く存在していると実感がわく。

いつの日にか当時に思いをはせながら、私もこの道を一人歩きながら岡谷へと進もうと思う。

夜7時過ぎ女工たちを想像しながら辺りの写真を撮る。

人影のない中雨が降り始める。

★★★道中記終了★★★

③暗闇の中、辰二郎とミネの像が見えた。

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2)1989年6月28日:A安曇野の宿→B再度、野麦峠へ→C松代大本営跡→D:善光寺→E:松本にて宿

再度、野麦峠に撮影に行くが今度は雨であった。

当時の手記を記載。

★★★道中記★★★

再度野麦へ。ミネの記念碑に行く。再たび、雨が降り始めるが、当時の状況を思いながらヤッケの帽子をとり記念碑に合掌。

雨のためすばらしいといわれる景色はほとんど見えないが、そのこと以上に女工達の姿に心がはせる。

★★★道中記終了★★★

 

③雨の中、ヤッケをとり、合掌。

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『旅に心を求めて―不条理編(上)』の表紙は辰二郎とミネの碑にする予定でいた。

だが、上記写真では話にならない。

『同上書』出版予定が2014年末のため、2014年夏に撮影に行く予定でいた。

ところが、同年夏に、この界隈で熊がでたという。

そこで、松本市役所山岳課などに相談すると、野麦祭りの頃の方が安全で良いということになった。

その結果、2015年5月24日野麦峠祭りに参加することになる。

この年は2月末から3月上旬にかけてアメリカに行ったため、その写真の後始末などで行ける状態ではなかったが、松本市役所、奈川観光協会や、市民タイムス等など様々な所に問い合わせをしていたため、2015年5月決行となった。

 

④お助け小屋。

―経営者に、「いつか、必ず、泊まりに来ます」と言ったのだが、2015年行くと閉館であった。

当時のメモに以下あり(注意!現在の情報ではありません)。

野麦峠:お助け小屋=民宿:料金1泊2食=6000円、素泊まり=3200円。
★高根村観光開発公社=067759ー2211 お助け小屋=067759ー2409 (必ず泊まりにいく)。

⑤吉永小百合さん寄贈の碑。

―2015年野麦再訪の際にはなかったように思えた…

この後、松代に向かう。

□道中記に以下の記載あり。

★★★道中記★★★

松代にきて初めて自分は旅行をしているのだと思った。

町は落ちついた雰囲気の中で静かにたたずみ、1人旅には最適の地であった。

秋の夕焼けの映える町ではなかろうか。

先に書いた旅は人なり、そして心なりと、再度思う。

そして、その地にすむ人々に思いをはせる。

私は古いすたびれた家に心を奪われることがある。

不思議に思う人がいるかもしれない。

古い家に住む老婆を想像し、その姿に自分の亡くなった祖母や身の回りの人達を連想する。

あらゆる物を持ち、あらゆる人達に関心をもたれている人は、あらゆること・あらゆる人に関心を持ち、自分の孫達に何でも与えれるであろう。

だが、すたびれた家に住むそして心優し老婆は誰に何に関心をもち、自分の愛する孫達に何をどのようにして与えようとするであろうか。

だから古い家をみて感慨にふけることがある。

きれいな景色を求めるだけが旅ではない。

その地で自分の何かが見つけらればと思う。


※[補足]上記は松代の地に行き旅の心について考えたことのメモ。

私が様々な地でいままで見てきたこと。

松代の町並み自体ではない。

ただ、松代の 町並みを歩いているといろいろな人間模様を連想し、そして今までの思いがよみがえったのでここに書いた。

松代の地というのはそうしたいろいろな思いをよみがえらせてくれる地であった。

★★★道中記終了★★★

 

 

 

⑥中は真っ暗。カメラのフラッシュをたいたときのみ何か見えた。
何かとは、岩が!
下の石につまづき、足の親指の爪がとれた。
これが、私が入った松代大本営跡。

⑧大本営跡の地下壕(かなり大・しかも一部にすぎない)真っ暗でこうもりが飛 び交う。

幼き頃はこうもりを手でつかまえ、羽を広げて遊んだが今はその元気なし

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―2015年に再訪すると全く見違えるほど整備されていた。それらの写真は後日掲載予定でいる。

この後、善光寺へ向かう。

★★★道中記★★★

夜が訪れようとしている中、善光寺の門に座り長野の街並を静かに見る。

午後7時。東京時代に、呑んだ帰りに立ち寄った、街路燈に照らされた人気のまったくない真夜中の公園を思いだす。

雨が降りはじめ、松本に向い出発する。

★★★道中記終了★★★

⑧善光寺、暗くて、当時のコンパクトカメラでは写せなかった。

―それが、2015年善光寺再訪の一番の理由。

『旅に心を求めて―野麦の旅』では善光寺もでてくるが、下記写真などでは使用できないからである。

2015年5月の善光寺は儀式で賑(にぎ)わっていたが、私が善光寺を同年訪問したのは全く別理由からであった。

 

 

★★★道中記★★★

雨が降りはじめ、松本に向い出発する。

例によって最初は本当に道に迷う。

次に標識のいたづらから道が完全に不明となる。

従来なら、ここで気の向いた方向にまっすぐいきそこにとまるであろう。

もはや、当初予定の箇所は行っていたので。

また、知らぬ方向にまっすぐいき、適当な所で泊まる、そうした心情への憧れもかすかにあった。

今回はトラブルが面倒なのでとりあえず松本に再度向かう。いつか、まったく予定のない旅がしたい。

(ただ、トラブルの馬鹿さ加減にあきれる。

勝手に標識をかえ、松本に行くのは無理と思い行き着く所へと思えば、えんえんと干渉、一方通行の道の反対方向に走る羽目にさえなる。

ならば、最初から松本行きを妨害せねばと思う。)

 

★★★道中記終了★★★

この日、松本にて宿をとる。

そして、松本城を見に行こうと考えたが、方向音痴で道が分からなくなり断念した思い出がある。

なお、宿については下記記述があり、2015年野麦の旅ではこの宿に泊まることを絶対条件としていた。

★★★道中記開始★★★

1:松本ツーリストホテル典型的都市型ビジネスホテル。…
ただ、気になるのは、出かけるときに、車が一定きれいな気がしたが、あれはホテルの誰かが拭いてくれ
たのか。

預かり料(600円)支払っているとはいえ、もし、そうならばほとぼりがさめた後で宿泊する必要あり。

★★★道中記終了★★★

 

3)1989年6月29日:松本の宿~黒部ダム~(新潟県糸魚川)~(高速で)我が家。

この日は強行軍であった。

ただし、今回は、当時の道中記だけを掲載するにとどめる。

★★★道中記開始★★★

1:黒部ダム雄大な光景であった。
2:黒部平=ケーブルであがり外に出た途端、別世界・楽園のように見えた。庭園の後ろに雪山、前
下に黒部湖、そして四方に山脈が広がり、それを日が照らすという。

これで花が咲きみだれればまさに楽園そのものであろう。

いままで見た景色の中で最もきれいな景色の一つであった。
3:大観峰。雪がこの時期に大量に残っていた。

残念ながら霧でほとんどなにも、見えず。
4:ただ料金の高いのにも驚く。
通行料620円、駐車料800円、バス往復2210円 ケーブル+ロープウェイ大観峰3090円。もし最後まで乗
ると往復6000円強。

★★★道中記終了★★★

 

⑨黒部ダム。

89-008-02Am-f

 

⑩殉教者慰霊碑

89-009-07-fm

★★★道中記開始★★★

★【課題】
1:黒部ダムの犠牲者に関する文献・文書などが入手できない場合は映画『黒部の太 陽』のビデオ
を探してみる。
2:上記1は、文明の進歩を人間の尊厳とという観点から捉えなおすため探す。
瀬戸大橋なども同様の観点から考えてみる。
3:犠牲者については、瀬戸大橋などでも像・記念碑などでその建造物の歴史とともに残すべきで
あろう。しかし、犠牲者のでる確立が高い事業はする必要があるのだろうか。

犠牲者[殉教者]数171名で間違いなし。

 

★★★道中記終了★★★