三原:2014/08/06:旅に心を求めて№2:お~い。あれが宿禰島(すくね)だ―(1)

お~い。あれが宿禰島(すくね)だ―(1)

【掲載予定】
(1)お~い。あれが宿禰島(すくね)だ約22枚掲載予定(前回10枚掲載)
三原市・宿禰(すくね)島と瀬戸田(2014年8月6日)→2017年2月12日追加し再掲載開始中

(2)思い出の耕三寺約15枚掲載予定(前回4枚掲載)
瀬戸田と耕山寺(1996年8月15日)→1週間前後を目処に掲載予定(新規掲載)。

前回掲載時と比べ、写真のみか、少し追記があるため、2~3回に分けて掲載予定。

●2016年1月3日深夜、正確には1月4日未明、新藤兼人監督の『裸の島』を見た。 凄い迫力の映画であった。

正確にはすごい生命力あふれる映画であった。

撮影予算はわずか500万円だそうである。

映画の解説は別の機会に譲るとして、この映画の舞台・宿禰(すくね)島に行ったときの解説を記す。

新藤さんとの思い出は、公式Blog「夢か現か―5・『お~い。あれが宿禰島(すくね)だ』・新藤兼人」に掲載している。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1061

新藤さんの『午後の遺言状』(1995年)は、私の一言が影響を与えた可能性がある。

TVに向かい、「人は誰でも老いる。ならば、その老いを逆手に取り、逆らわずに作品をつくったならばどうだろうか」と言ったことがある。

その一年後くらいにこの映画が登場した。

勿論、1994年から95年ころは単なる偶然としか思っていなかった。

新藤 兼人(しんどう かねと、1912年4月22日 – 2012年5月29日)の名前は知っていたが、新藤作品は見たことがないと思っていた。

調べたならば、新藤さんの「北斎漫画」(1981年)は見ていた。

「裸の島」については全く知らなかった。

それが、下記に記す偶然で裸の島の舞台・宿禰島の近くを2014年8月6日に通ることになる。
そのときのいきさつを公式Blogと、撮った写真をおりまぜながら記す。


「あれが、宿禰島(すくねじま)だ」。
「はあ~」
「新藤兼人監督が撮った『裸の島』の舞台だよ」(写真1)
甲板にいた船頭さんが叫んだ。

(船頭さんの写真は撮っているが、肖像権などに配慮し掲載できない。許可を得た時点で追加掲載を検討する)

(写真1)

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残念ながら、私はこの映画はまだ見ていないが、この映画のことは知っていた。

2014年8月6日のことである。
三原から瀬戸田への船の道中である。だが、何故、私がここに!

前夜、知人に会い、その後三ノ宮で、(各種クーポンを利用して)2500円で宿をとり、青春18切符を利用して、この日は広島原爆平和公園に向かっていた。

目的は、原爆投下の日に、韓国・北朝鮮原爆犠牲者慰霊碑再撮影と、各種の慰霊碑に合掌するためであった。

その私が何故ここに!

(写真2)

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三原で汽車が動かなくなったからである。

大した雨にも思えなかったのに、洪水で山陽本線は運転見合せと言う。

呉線は徐行運転のため広島へは3時間半、新幹線切符口は長蛇の列で13時頃の列車には乗れない。

だが、本日中に我が家に帰宅しなければならない。

そこで、広島は後日日帰り再訪とし、拙著Facebook№14-007(平山画伯)に記した平山郁夫画伯の故郷・瀬戸田に行くことになったのである。

(写真3)三原港をでたところ。

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(写真4)

 

(写真5)



この日の海は濁(にご)り、黄色であった。

空は一面に雨雲が立ちこめていた。海好きの私は飽きることなく海を眺めていた。

(写真6)

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(写真7)

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そのときに船頭さんが「宿禰島(すくねじま)」と叫んだのである。
ともかく宿禰島(すくねじま)を撮影した。

(写真7)

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その数分後、海の上で鳥が出迎えてくれた。
「ようこそ、瀬戸田へ」、と。

(写真8)

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(写真9)


そう、新藤兼人監督にもいろいろと思い出があった。
海を見ながら、その思い出に耽(ふけ)る。

TVなどから人が見ているはずなどあろうかと、映画について好きなことを喋ったことがあった。

「監督も老いる。ならば、その老いに逆らわずに、そのものずばりを作品にしたらどうか」、と。

それから暫(しばら)くして、新藤兼人(1912~2012)監督が「午後の遺言状」を作った。1995年のことである。

私の言動が影響したなどとは思わなかったが、実にタイミングが良かった。

やがて、2005年頃、NHKを見ていると新藤監督が出てきて、テレビで御対面の如(ごと)く感じを受けた。
「おい、若いの、今度は、ワシの方が年の取り方を教えてやる」。
「今、93歳だが、まだまだだぞ。まだまだ自宅で一人生活をし、英語も勉強しているぞ」
このころ、新藤さんはNHKのラジオ英語を毎日されているとのことであった。

そこで、私が1988年頃の同テキストの内容を言うと、新藤さんが「からかってはいけないよ!」と、私の茶(ちゃ)化(か)したことをさりげなく訂正された。

次に、2011年頃に、99歳頃の新藤さんを再度NHKで見る。
しかし、姪の方との共同生活で、昔と異なり、自活型ではなくなっていた。

生活自体は依存型に見受けられた。同時に相当衰えた風に見受けられた。

だが、作品意欲はまだ衰えていなかった。
「まだ、作品はつくるぞ」、と。
衰えた風に見えた爺(じい)さんが、作品作りの話となると、目が生き生きしてきた。

活力も見られた。では先の老いた振りは演技かと疑う始末であった。

2012年5月29日に、新藤さんは100歳で亡くなられた。
その後の、特集番組で、88歳頃の新藤さんが、大きく腕を振り堂々と、たくましく歩かれている姿が放映された。

88歳から100歳までの新藤さんの生き様・老い方を見せてもらった

彼は私に年の取り方と死に方を教えたかったのかもしれない。

天国の新藤さん、『午後の遺言状』と『裸の島』、それに最後の遺作は必ずみるからね!

なお、このときは撮影計画抜きの偶然の船旅であり、撮影アイデアなしで撮ったため、作品風の写真は皆無であった。

だが、大した写真ではなくても、宿禰島(すくねじま)(新藤兼人の代表作『裸の島』舞台の島)の写真を掲載しておく。

同島保存運動への、僅かな協力にでもなればと思う。

2017年2月12日 | カテゴリー : 広島県, 三原 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA