香川:高松~神戸:撮影日2015年12月7日:旅に心を求めて№9-1・老人と海、そしてルミナリエから平和像まで・概略

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《見出し》 瀬戸の海は光る。それも銀色に光る。『日本のフィクサーME』第3章8節に記した。そのときはフィルム撮影のため、デジタルで撮り直しに行ったのがこの旅である。この日の海は青、銀色、青、そして金色、オレンジ色、最後に真っ赤な残照を示した。この日の撮影は、まさに「老人と海」であった。今回は文書が主人公という本来の路線。しかし、残照の写真は納得のいくものであった。その後疲れで動けないほどであった。…

香川:高松~神戸:撮影日2015年12月7日撮影:旅に心を求めて№9-1・老人と海、そしてルミナリエから平和像まで・概略


《はじめに》

私はカメラマンではないし、写真展もしていない。

松尾芭蕉 ではないが、旅をテーマにした紀行文型作品を作成して起業を目指していた。
その作品群は、他の人がみたことのない作品のため、誰も想像できず、誤解のオンパレードであった。

 


では、何故(なぜ)まともな文章を掲載しないのか。
超多忙のため、妨害のため、ときには催眠類で自分の意図と違う形で掲載を強いられるため、あるいは新聞社に雇われたか如く、新聞型の記載を、適切な頻度を超えて掲載をしいられたためである。

その上、私は三匹の子豚・『ブーフーウー』 (Boo Foo Woo)に例えれば、ウーである。物をつくるには時間がかかる。それは絶対的条件である。その絶対的条件を奪われたからである。
本日(2018/05/14)あたりから、本道に戻り、量より質、特に自分の思う形で掲載検討を開始する。再度言えば、良質な物をつくるには時間がかかる。そして、それは絶対的条件である。

 


【構成】
(序)この旅のダイジェスト
(1)瀬戸の海―1・宇野港~高松への瀬戸の海
(2)瀬戸の海―2・高松から神戸迄の瀬戸の海
(3)神戸ルミナリエ―鎮魂の灯火(ともしび)撮影 連続掲載は中止し、かなり後日、掲載に変更
(4)平和の女神(尼崎・世界連邦平和像)と世界連邦平和像(大阪城内、北村西望作) 連続掲載は中止し、かなり後日、掲載に変更
(5)適塾にて。 連続掲載は中止し、かなり後日、掲載に変更


【リンク】(クリックで該当箇所)
(序)この旅のダイジェスト {赤がこのページ}
(1)瀬戸の海―1・宇野港~高松への瀬戸の海
(2)瀬戸の海―2・高松から神戸迄の瀬戸の海(空の十二変化)(その1)

  同上(その2)・小豆島にて

★以降は、時期をかえて別の日に掲載。

神戸ルミナリエ―鎮魂の灯火(ともしび)撮影
平和の女神(尼崎・世界連邦平和像)と世界連邦平和像(大阪城内、北村西望作)→その(1)尼崎、その(2)大阪
適塾にて。


今回は全体のダイジェスト、若しくは予告編である。


2010年12月4日、『日本のフィクサーME』作成のため、宇野から高松まで海を渡った。
「晴天の日の瀬戸の海は光る。しかも銀色に光る。
 私が一九九六年に見た天草から口之津への海は金色に輝いていた。だが、瀬戸の海はいつも銀色に輝く。輝くというよりも、海が鏡の如(ごと)く、光を反射し、光を放っているが如くに光る。私は、宇野から高松に行く道中の海を〝光る海〟と名付けている。
 写真家・故緑川洋一氏はこの海に魅せられ、瀬戸の海を撮り続けた…」{『日本のフィクサーME(上)』(安らぎ文庫)、Kindle・Koboで発売(百円、$1)、第3章第8節光る海より}


このときの旅は、すべてフィルム式カメラでの撮影であった。
そこで、この旅をデジタルカメラで再撮影を試みたのが、2015年12月7日からの旅・{『老人と海、そしてルミナリエから世界連邦平和像まで』}である。


今回はダイジェストため、概略の一部のみを抜粋する。


□《掲載写真は一度クリックでパソコン大、二度クリックで超巨大》


…最初の海の光景は青い空、青い海であった。…

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……やがて、海は銀色に光ってきた。そう、これが瀬戸内海である。瀬戸の海はゴージャスである。日本海の海が一般にわびさび型であれば、瀬戸の海は華(はな)やかである。日本海の海が陰(いん)ならば瀬戸の海は陽(よう)である。それをこの日、再度、痛感した。また、海の蜃気楼(しんきろう)が幻想性を奏でていた。……

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……やがて、小豆島が見えてくる。このあたりから、再度海は青に変わった。2010年と異なり、今度は小豆島は素通りではなく、小豆島にも寄港した。……

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□  ……小豆島を離れると、海は今度は銀色ではなく、金色に光り始めた。瀬戸の海で金色の海を見たのは初めてである。金色の太陽と、金色の海。しかも、海はのどかな形で緩い線を幾つもだしていた。その緩い、金色の波の上に、縦に光る金色の線がついていた。ここで船が通ってくれと願った。鳥がくればなおよい。鳥や船よこい!来れば完璧に決まる。鳥は無理でも、どんな船でも良いので来てくれ。この海の線、海の光りかた、太陽の位置、ここに船が来れば、完璧に決まる。だが、船はこなかった。船は周りにいることはいるが、角度が違い、そちらは光ってはいない。……

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……

こうして、本年一、二を争う写真は撮れなかった。だが、あきらめなかった。空をみて、私は近くの人に聞こえるように言い切った。今日は、夕日とまでは行かぬかもしれないが、太陽が一定色を帯びる。空も一定の赤い色がつく、と。何故そう思ったか。
難解になるが、解説をしよう。…《後の本文参照》…

 さて予告は当たったか。
太陽は赤くならなかったが、空の色が黄色から、橙(だいだい)色(ダイダイいろ)へと濃くなってきた。私の予言通りに準夕日である。……  空は相当濃いオレンジとなり、太陽の輪郭もはっきりと見える。今度こそ、船か鳥かきてくれ。鳥がくれば、大急ぎでX1.4のテレコンバーター・レンズをつけ焦点距離700ミリとし、更にDXカメラかDXフォーマットに近い形でトリミングすれば千ミリ以上となる。鳥が飛ぶようならば、太陽の真ん中に鳥をシャドウで入れて撮る。鳥よ来い!鳥が無理ならば船よ来い。前例があっても、これならば完璧に決まった写真となる。だが、鳥も船も来なかった。……

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 しかし、まだあきらめなかった。近くにいた人に私は言い切った。今日は残照が凄(すご)いですよ今度は太陽と逆の方向が赤くなりますよ。見るならば太陽と逆の側の空ですよ、と。太陽が海に沈んだのが16時52分頃である。

夜景撮影は夜ならばいつでもできると勘違いをしている人がいるが、24時間中、撮影で一番よい夜らしい色がつくのはわずか5分程度なのである。その5分が成否をわける。夕日や残照も撮影に一番よい時間は24時間中数分でしかない。この時間帯の夜の空は秒単位で色を変える。17時を超え、私の願っていた色にちかづいてきた。

17時3分、そろそろ可能領域に入ってきた。ここからはシャッターはカメラ二台で切りまくった。17時6分から17時9分、ついに来た。願っていた空である。人間の目には奇麗な残照の空は長くみえるが、カメラなどの色温度に機敏な機材はより正確に判定する。わずか数分と。実際願っていた空は17時3分頃から17時10分の半ば頃までの6分弱であった。この数分がすべてなのである。

 

 17時10分台は文字通り、撮影セーフからアウトへと正に秒単位で変化した。この1分に約7枚シャッターを切った写真がそれを証明している。

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17時12分を過ぎると人間の目でももう駄目というのが分かるようになった。17時15分、もう駄目である。それでもまだ数分は撮れるという人がいようが、それは陸地で三脚をつかっての話である。ここは船の上、動いている乗り物の上である。D800などの作品にする上での範囲はISO 800まで、動いている船の上からでは1/1500前後のシャッタースピードは確保しておきたい。だが、それぬきでも、変わった撮り方でない限り、夕日撮影の限界時間は超えていた。

さらに、突如、強風が吹き出した。立っているのも危険なくらいであった。もし、何かあれば他の乗客にも迷惑がかかるため、降りることにした。

客室に戻るのではなく降りることにした。というのも、この船には客室以外に幾つもの部屋とスペースがあるからである。そこで、客室以外の部屋でカメラ・レンズの手入れをすることにした。

今回の旅は、1990年代後半の求道の精神で行ったフィールドワークを思い出すため倹約旅としていた。そこで、家をでるときに食事はホットケーキを焼いたのを持参し、飲物はお寺の檀家(だんか)総代会でもらった500ミリリットルのほうじ茶を持参していた。そこで、それを食べれば昼食代はゼロ円となる。……

……

実際、この日はもの凄く疲れていた。それは歩いたせいではない。思い荷物のせいでもない。撮影自体が大変疲れるのである。理想的な絞りの計算、必要なシャッタースピードの計算、どの程度のISO感度ならばどの程度の画質になるかの計算、それらを総合しての露出の計算……、と。さらに、この場面ではどのレンズがよいか。画角のみではなくレンズの癖がある。その計算。……

…… 1997年頃に、母を仏壇の前で3時間弱撮影したことがある。三脚二台、カメラ二台、幾つもレンズを使っての撮影であった。モデルの母も疲れたであろうが、私も撮影後、二時間ほど動けず、横になったままでいた。そのくらい疲れた。ぐったりくるのである。
もの凄い計算と、シミュレーションの連続、更に先の夕日の如く、「鳥よ来い」とか「船よこい」という心理状態の連続なのだから当然である。家で仏壇の前で歩かなくても、重い機材を持ち運ばなくても疲れるのである。

…初老の人間にとって、まさに、「老人と海」であった。……


《参考》

(2)・日程
2015年12月7日
午前8時半発→宇野駅11:46着(1050円+580円)
正午発→四国汽船で高松へ:高松着13時時5分。(690円か)
13:05分~14:00迄高松駅周辺散策、14:00~14:20ジャンボフェリー乗り場(shuttle busで無料)
14:30発:ジャンボフェリー発時間:神戸へ(1990円)
19:15着(強風のせいか遅れが出る):元町へ移動
19:50(元町)~神戸ルミナリエ:(無料、但し寄付を百円した)21:33会場から歩いて三宮へ~22時頃阪急三宮
22:10頃(三宮)~22:55頃宝塚ホテルチェックイン
午前1時過ぎ就寝


12月8日
午前7時半頃起床:朝食。グロッキーで宝塚ホテルで安静
10:59 宝塚南口~今津(阪急:180円?):(阪神190円)~尼崎へ移動
11:42阪神尼崎で世界連邦平和像(女神の像)撮影。12:23頃撮影終了
12:40頃尼崎発~(阪神:240円)~梅田~(地下鉄)谷町四丁目下車。大阪城着13:20頃
13:30頃から世界連邦平和像(北村西望作撮影):14:05頃終了
14:05~(徒歩)谷町4丁目~(地下鉄)~淀屋橋
14:55頃から適塾撮影(陰で色温度がつくことと帰りの汽車の時間(15:15発)の関係で15時で打ち切り。
15:00から大阪駅を徒歩で目指す。15:15に間に合わないため、16時の高速バスに切り替える。
我が家へのさらなる乗り継ぎを考えるとこれが完全最終であった。ところが予定外に知人に会う羽目なり、やはこしくなる。スケジュールの関係でこの日は会う予定は全くなかった。その後大阪駅へ


17:00頃発汽車から最寄りの駅へ21時過ぎ着。(交通費2900円?)
乗り継ぎ最終バスはもはやなく、徒歩で重いカメラ機材をもち、重いリュックを背負い、約6キロを歩く。

約1時間10分後に我が家着。その後……トラブルが?これで帰宅後にすぐ行うFieldの簡易紹介、HPの更新作業、写真のPCへのロード作業などが不可能となった。


(3)・関連資料【費用】
交通費→上記の通り
宿代=11200円―5000円(宝塚ふるさと割助成)―楽天社ポイント2500円=2500円朝食込みダブル。
食事代=12月7日朝=0円、昼=さぬきうどん(450円)、夜コンビニで飲み物と夕食(約500円=A)。予定外の缶ビールとつまみ類約500円。税含めて約1090円支払い。
12月8日朝0円(ホテルの朝食)、昼(抜き)、夜(吉野やの牛丼380円)、駅前の店でソフトドリンク93円。
(道中の飲み物は行きはお寺でもらったお茶のみ、帰りは上記の93円のみ。後は上記コンビニで購入=Aのみ)
※前回の公約通りに、質素とし、全6食合計+飲み物合計約2千円。帰宅翌日の朝昼が事実上なしのため、8食と飲み物合計2千円とした。