- 序文・原爆犠牲者慰霊碑の物語
- 内容は「教師と子の碑」「原爆と子の像」「韓国原爆犠牲者慰霊碑」の三つの像を巡る物語である。
五話からなるが、今、簡単に仮の題をつけると、以下の如(ごと)くとなろうか。 - ※序の写真番号→(写真№13-57-239-2)
- 第一話「教師と子の碑を前に戦争と平和と人間に想(おも)う」。→このページ
- 第二話「悶々(もんもん)とした中で」。 →二話(その1):二話(その2):
- 第三話「未来への小さな灯火(ともしび)」。 →三話(その1):三話(その2):三話(その3):
- 第四話「オバマ大統領に届け、私の手紙」。 →四話(その1):四話(その2):
- 第五話「平和への遠い、遠い、遥(はる)かな道」。 →五話(その1):

- 【今回のHPへの追加文】
- 『戦争と平和と人間に想う』第1話に登場する「教師と子どもの碑」を撮影し、拙著「生命への畏敬(Reverence for Life)」4章「戦争と平和と人間に想う」の中で原爆投下を批判した(1994年)。すると、その直後にアメリカでの原爆展開催(スミソニアン展)への大論議がアメリカで起こった(1995年)。
- 同時に、この原稿の一部を拙著『旅に心を求めて―教材編』第13章に引用し、新しい原稿を記した。タイトルは「教師と子の像の前に立ち尽くす―授業を求め広島へ」(見出しは「一枚の写真を求め『原爆の子の像」を訪ねた広島への旅』)である。1995年夏頃だと思う。
※(2017年追記)同時に、この原稿を予備教材として学生に1994年末頃から配布を開始し、95年にはほぼ完成したものを配布し続けると、翌・1996年原爆ドームと宮島が世界遺産となる。ちなみに、私も宮島と原爆ドームはセットで訪問することも多い。宮島も1994~95年に足を運んでいる。
この教材の中で韓国原爆犠牲者慰霊碑だけが、なぜ平和公園の外にあるのか、と記していた。そして、その教材を授業で1998年1月迄(まで)使用し続けていた。1999年7月21日に、韓国原爆犠牲者慰霊碑が平和公園内に移転される。勿論(もちろん)、平和公園内への移転を望む声は方々(ほうぼう)から出ていたであろう。だから、私の原稿とは無関係と思いたい。
だが、先の原稿の中で、「原爆の子の像」に何かを求めていったのであるが、「教師と子どもの碑」に強い印象を受けたと記していた。すると、2003年に「原爆の子の像」付近の折り鶴が燃やされる事件が起こった。火をつけたのは、私の母校(関学と早大)の一つ、関学の学生であった。これも偶然と思いたい。
-
さらに、この文章を記した後で、次の問題への回答を迫られてもいた。原爆投下により、日本の植民地被害に遭(あ)った国の人々や、米国軍人数百万人もの命を救ったのだ、と。だから、あなた(私)の文章はおかしい、と。ようするに、原爆犠牲者と日本の侵略戦争被害者との命の天秤問題への回答・解答を求められた。
それへの回答への道を記した書物が『生命への畏敬』の中の「地方自治の精神」と「戦争と平和と人間に想う」の箇所であった(1996~2008年にかけて作成)。特に2000年頃、『命の重み』を強調するため、『生命への畏敬』の中で日本の百姓一揆(いっき)の事例をだした。百姓一揆(いっき)はTVや映画とは実像は異なり、相手の命ではなく、自分の命をかけていた、と記した。
相手が死ねば勝ち、自分が負ければ自分が死亡するのではなく、勝っても負けても失うのは自分の命であったことを、史実に基づき記した。すると、それへの返答の如(ごと)く、アメリカで9・11事件(自爆テロ)が起こった(2011年)。
そこで、再度、私の見解と自爆テロは違うことなどを含めて、『旅に心を求めて・不条理編』として、これらの問題を総括した。しかし、幾つかの出版社へ送付したものの、どこの出版社も出版にも応じなかった。懸賞論文からも見放された。だが、この原稿を読んだ人はほぼ全員が賞賛してくれた。だから、うぬぼれではなく、誰かの妨害としか思えなかった。こうした長い経緯を経て、本年(2015年)1月30日に『旅に心を求めて・不条理編(上)』として、Kindleから発売されることになった。この本を読んでもらえれば、何か分かると思う。
同時に、この本は、世界の平和と安寧(あんねい)に寄与する内容であると考えている。 なお、『旅に心を求めて・不条理編(上)』と写真物語館・広島原爆の『戦争と平和と人間に想う』は、本質は同じであるが、別本(内容)である。後者もいつか完全に作品化して、世に問うことを望んでいる。
ともかく、広島を巡る両方の作品は、共に、次の一枚の写真・「教師と子どもの碑」から始まっていた。
スミソニアン原爆展、韓国原爆犠牲者慰霊碑、原爆の子の折り鶴問題、9・11事件、と私の原稿、これらは全て偶然であろうか、と疑問に思うほど時期が符合していた。おまけに、原爆以外でも万事が万事こうなのだから。更に、この原稿を世に問うた、まさにその翌年の1996年原爆ドームが世界遺産となったのも…。
- 【第1話】「教師と子の碑を前に戦争と平和と人間に想(おも)う」

- ことの始まりは1994年であった。大学校の授業教材作成のため、金欠にて、鈍行で広島平和公園内の「原爆の子の像」を求めて行き、その帰路次のメモを記した。
「九四年度夏、原爆の子の像を求めて、広島・平和公園に鈍行で行く。 そして、教師と子の碑の前で立ち尽くし、次のようなことを思った。
... - 特にすぐれてもおらず、
子供にも好かれているわけでもない教師がいる。
そして、優秀でもなく、
特に教師に好かれてもいない生徒がいる。
それが、原爆の瞬間には
自然とその子供を抱いている教師の姿である。
- この像の意図は私の想いとは無関係であろう。
だが、ふとそう考えたのである。
- どの教師も、(すべての教師が無意識に持つ)
何かへの思いを持って教師にならんとする。
どの生徒も本質的には
何かを学ばんとして学校に来る。
それが、今日(こんにち)のように不協和音をたてるのは
何故だろうか。
- 同様に、幼い子は本能的に善なるものを求め、
親も子にそれを求める。
だが、一人の親は原爆をつくり、一人の親はそれを使用し、
一人の親はそれを使用するように指示すらした。
-
そして、原爆に苦しんだ人達、今も苦しんでいる人達がいる。
その像が、想いがここ広島平和公園にはいくつも存在する。
(九四年七月十九日・浜田記す)
本年(一九九五年)度の授業はこうした不条理なことから始まることになる」
- 拙著『旅に心を求めて・不条理編』第2章・広島編より抜粋。
ただし、これ以外の文章は『同上書』からではなく、Facebook及びGoogle+用への書き下ろしである。
※この頃はまだカメラを開始していなかったため、今回添付の写真はフィルム式コンパクトカメラで撮影したものである。後年、フィルムスキャナーで処理した。
上記の写真=(写真№94-003-01)