第二話「悶々(もんもん)とした中で」(その1とその2)

  • 第二話(1)教師と子の碑再撮影にて韓国原爆犠牲者慰霊碑に想う。
  •  1994年の「教師と子どもの碑」撮影はコンパクトカメラであったため、一眼レフカメラを購入し、95年4月3日に広島へ再撮影に行く。やはり鈍行の日帰り旅である。
     平和公園には1950~70年代までに何度か、80年代に二度か三度、94、95年と連続で行っている。
      ...
     この日(95年4月3日)は、「教師と子どもの碑」は逆光のため、一眼レフで数十枚撮ったがすべて不満足の出来であった。仏像及び彫像は撮影角度の一度で善(よ)し悪しが決まるほど、難しい。
      

     この日は「原爆の子の像」と「韓国原爆犠牲者慰霊碑」が印象に残った。だが、このときに、幾つかの課題を背負った。
     対比するつもりはなかったのであるが、「原爆の子の像」よりも「教師と子どもの碑」に感動した、と、当時教壇に立っていた大学校の教材{『旅に心を求めて―教材編』}に書いてしまったのである。
     同時に、韓国原爆犠牲者慰霊碑について「何故か、この碑のみ平和公園の外にたたずむ……」と『同上書』に記した。しかも、98年まで、その教材を使用し続けた。当時の学校には広島県の高校卒業者も多かった。
      

     その後、大学校を労基法違反被害で病気辞職し、静養している間に二つの事が起こった。
     一つは、私の母校(関学と早大)の一つ関学の学生が、2003年に「原爆の子の像」に捧げられていた折り鶴を燃やしてしまった。もう一つは、韓国原爆犠牲者慰霊碑が1999年7月に平和公園内に移されたと聞いた。
      

     そこで、病気であった母が死亡した翌年・2013年に、親友の墓参りのついでに広島を訪問することになる。

     主たる目的は三つあった。
     一つが「原爆の子の像がどうなっているのか」。
     二つ目が私が言い出しっぺではあるまいが、韓国原爆犠牲者慰霊碑がどうなっているのかを確認することにあった。
     三つ目は原爆・戦争との戦いのためであった。


     2013年10月についに広島へ。
     原爆の子の像は?
     韓国原爆犠牲者慰霊碑は?
     また三つ目の目的は?
     さらに何故、2014年も広島平和公園に行ったのか?




 

 

 

 

 

 

  • 掲載写真→上から、(写真№95-50-6A1)(写真№95-50-5A)(写真№95-40-17A)

     ※掲載写真は、一眼レレフカメラを開始した半年後(1995年4月・カメラ技術が未熟な頃)に撮ったものである。当然フィルム撮影で、後にデジタル化した。一番下が原爆の子の像、上二枚が韓国原爆犠牲者慰霊碑である。当時は平和公園の外の川の側(そば)にあった。

 

 


 

  • リスト第二話-2

  •  母校の後輩が燃やした折り鶴と、原爆の子の像はどうなったか!
     韓国原爆犠牲者慰霊碑はどうなったか!...
     そして、ある使命を持ち平和公園にやってきた。
     
     まず、原爆の子の像を見た。
     原爆の子の像は写真に掲載したごとく、折り鶴はケースに入れられていた。
  • 下の写真→上から(14-55-92-H)(14-31-019)

 

 

 

 

  • 少し画質が悪いが、1995年の写真を参考までに掲載。(写真№95-040-15A-f1)→フィルムスキャニングで粒状性が多いため、レタッチ時に網加工