5:雪のキャニオン

雪のキャニオン―先住民に想う

3月1日(日本時間3月2日)の日程

①午前6時半モーニングコール。
②午前6時半~7時半→全員で別の場所で朝食。
③現地時間午前7時45分ホテル発(日本時間3月2日午前0時45分)
④グランドキャニオン(三十年に一度という吹雪で何も見えず。滞在も20分である)
⑤ロッジ
⑥昼食(今月の歌がアメリカでもう知られていた謎)
⑦キングマン立ち寄り
⑧17時前にラスベガスへ戻る。(Las Vegasは雨であった)

※グランドキャニオン以外は30分余りの立ち寄りで事実上、一日中バスの中(走行距離五百キロ余り。但し雪のため速度は通常よりも落ちる)。事実上唯一の観光見学であったグランドキャニオンは雪が降り何も見えなかった。
更に宿となったペイジは雪であり、Las Vegasは雨である。


アメリカ滞在は事実上前日とこの日の二日間のみであった。
前日はLas Vegasからペイジへのバス移動(約700キロ)。
この日はページからLas Vegasへコースを変えてのバス移動(約600キロ
これで終わりである。
そして、翌日(現地時間3月2日)は午前4:05モーニングコールで起こされ(実際には相当前から起きていたか寝ていなかった)、そして約30時間かけて帰国である。当時は帰りは大丈夫と思っていたが、Vancouverでの😲が待っていた。



だが、収穫は幾つもあった。
レイクパウエルの辺りから、帰路のキングマンまではIndigenous people(先住民)、特にネィティブアメリカン系統が強調されていた。ただし、イヌイット系統は登場しなかったと思う。
後に述べるが、キングマンを超えた辺りから、西部劇ならぬ、西部へ移動の移民(要するに、東海岸から西海岸へ移動した人たち)が強調されていた。

同時に、随所でマイナリティに属する人達が強調されてもいた。これらは随所で記そう。
なお、バスの運転手のジョーさんはヒスパニック系の人だったと思う。


 ジョーさんとの🤝 握手も印象に残っている
 現地バス運転手確かジョーさんと言ったと思う人は親切であった。外見はサングラスをかけて怖そうに見えるが、実際には違っていた。
 彼だと思うが、バスの階段で転ばぬよう様々な配慮をしてくれた。それと、バスの窓がいつも奇麗だった。雨や雪続きのため、当然汚れているはずが、翌日も奇麗だった。
 今回の旅は飛行機中とバスだけである。前者は真ん中の席続きで撮影不可能となっていた。バスの窓が奇麗でなかったならば…。それ抜きでも感謝をしている。
 彼と交わした最後の握手は印象に残っている。一期一会(いちごいちえ)の強い握手であった。ジョーさんの手は常に鞄(かばん)を運んでいるせいか、手の裏側が固くなっていた。
 なお、ジョーさんは怖そうに見えたが、握手のときにははにかんでいた(照れていた)。 もう一人握手をした人がいるが、その人物は最後で記そう。


 また、白人層も、バイトなどの非正規と思われる人が多かった。総論として、私の印象ではアメリカ(少なくともアメリカ人)は貧しい国というイメージであった。東海岸にいけば違うのかもしれないが。
 それでは、お前は…。と言われれば、こう回答する
 ウィキペディアなどで、歌手・スポーツ選手・起業家や大手企業のCEO…などの年俸や資産が記載されており、その大きさで社会的な地位を表現する傾向がアメリカにはあるように思えた。日本人もそれに侵されつつある。
 だが、私は裏では超有名人のようであるが、私ほど貧困な有名人がいるであろうか。常時生活保護と隣り合わせである。最低でも、このままではいずれ生活保護となる運命に常時向き合わされている。
 それも35年以上に亘って。幼少の頃や苦学生の頃の貧困を含めれば63年となる。(だが、36才以降の貧困と生活保護への危機感は幼少や苦学生の頃の比ではない、)
 今71才(本年末頃に72才)であるが、世界を探して、有名人で斯様な状態の人がいるであろうか。ギネスブックに確実に掲載される数値を示している。「どうだ」と言いたいが、私は「もう解放してくれ」とか「安楽死・突然死ならば明日どころか数分後でもWelcome(歓迎)」と言い続けている。

 



ホテルの窓から、まるで12月末・クリスマスの雰囲気
[日本時間3月1日: 22時54分(現地時間3月1日午前5時54分)]

(写真№ 15-006-002 )



※ホテルを出て朝食へ
[日本時間3月2日0時10分(現地時間3月1日午前7時10分)]

(写真№ 15-006-11 )



★グランドキャニオン→ホテルを出てから約25分過ぎ
[日本時間3月2日1時12分(現地時間3月1日午前8時10分)]

●雪が吹雪き何も見えず。現時点でのグランドキャニオンの感想。「グランドキャニオンってどんなのか一度みてみたい」である。
帰国後、グランドキャニオンのHPでの写真をみて、グランドキャニオンってこんなの!と初めて知った。凄い所なのね!一度見てみたい、と。当日は視界が悪く、本当に何も見えず。

(写真№ 15-006-018 )


※ホテルを出てから約40分過ぎ:
[日本時間3月2日1時23分(現地時間3月1日午前8時25分)]

(写真№ 15-006-054 )


数十分で相当枚数撮ったが、良い写真は皆無であった。こんなのも珍しい。やはり、写真は先に構想がなければ無理である。グランドキャニオン撮影は完敗であった。(これほど気マラなかったの十年に一度程度であろうか。天気が悪くても、悪条件下でも何枚かは決めなければならいのに。

(2024/01/25 11:56追記)だが、本当はこうした日の方が面白い写真が撮れるときもある。即ち、写真は頭で撮るものであり、同時にオリジナリティが要求されるからである。そこで、こうした日は頭で考えに考えて撮るため、珍しい写真が撮れる可能性がある。
 そのための絶対条件は思考である。だが、滞在時間が20分では無理である。同時に、あの例の意味ありの「添乗員」池田さんが、随時、私にひっついていた。これでは思考などは無理であった。もっとも、池田さんは私が方向音痴なので迷子にならぬようにするためか、積もっている雪で転倒し、骨折などをしたときのために随時、私の側(そば)にいたのかもしれない。

(写真№ 15-006-038-0 )

(2024/01/25 18:21追記)実際に、バスに乗る前に、アイデアが浮かんだ。
無理をせずにそのまま撮ろうか、と。
そして空に向かって撮った。
下記である。だが、バスの中でモニタで見ると、今一つ決まっていない。この中にほんの少しでも雪が舞い散っている場面を入れたかったのである。実際にはほんの少しの雪ではなかった。結構降っていたが、絞りが甘すぎたのであろう。
そして、この写真がグランドキャニオンの印象でもあった。
正に、私の人生そのものである。

(15-006-039)
下記が、ツアーのメンバーが写真を撮っている所。
写真を現像・レタッチする段階でコントラストをあげたり、トーンカーブなどで操作したりしたため、人物は結構見えるが、実際には人物すらぼんやりと見える状況であった。
他の写真も同様である。撮ったままでは「霧の摩周湖」ならぬ「霧のグランドキャニオン」であったため、現像段階とレタッチ段階の各種操作してからの掲載でかろうじて何かが見えるとなっている

(15-006-030)


(写真№ 15-006-027 )


(写真№ 15-006-063-1 )


 
 

(写真№ 15-006-065-1 edge-PbとKa)

 





※ホテルを出てから約45分過ぎ:もうグランドキャニオンを発つ。滞在はわずか二十分程度か。見はらしポイントまでの距離を除くと十分弱。
 おまけに、カメラの露出を-1.0としており、ミスに気づき、訂正してからの撮影は数分。そして、この天気、これでは……。ただし、天気問題が本質ではない。時間不足と設定ミスが本質である。雪が降っていても、吹雪いて何も見えなくても、決めるときはきめなければならない。天気は言い訳にはならない。一番重要な構想を持つ時間がなかったことが敗因である。また、訪米前に現地のHPを見て構想を練っていなかったことが敗因でもある。

[日本時間3月2日1時30分(現地時間3月1日午前8時30分)]

(写真№ 15-006-091 )

※ホテルを出てから約56分過ぎ→次の目的地へ向かう。
バス中より写す。皮肉にも、こちらの方がましな写真となる。
[日本時間3月2日1時41分(現地時間3月1日午前8時41分)]

 (写真№ 15-006-103 )


(2024/01/26 13:52 2枚追加)

((15-006-106_DSC_0560と15-006-104_DSC_0558))



★Bright Angel Lodge着 →ホテルを出てから約59分過ぎ:
[日本時間3月2日1時44分(現地時間3月1日午前8時44分)]

(写真№ 15-008-240)

 

●※ホテルを出てから約1時間3分過ぎ:
[日本時間3月2日1時48分(現地時間3月1日午前8時48分)]

(写真№ 15-006-115 -edge)

 

●※ホテルを出てから約1時間5分過ぎ:
[日本時間3月2日1時50分(現地時間3月1日午前8時50分)]

(写真№ 15-006-123 )



■Ldegeを発つ。ホテルを出てから約1時間26分過ぎ:
[日本時間3月2日2時11分(現地時間3月1日午前9時11分)]

(写真№ 15-006-170 )



★Facebook及びGoogle+投稿文書(2015年6月8日)より。

FG書込№15-043-06。This is America第5回雪のキャニオン。

グランドキャニオンは雪が降り何も見えなかった。
それ以上に、キャニオン見はらし地点まで行く時間を除けば、滞在時間が十分程度のため、撮影は不可能に近かった。
撮影に敗北も勝利もないが、強いてこの種の言葉を使えば完璧に敗北であった。十年に数度あるかどうかの敗北であった(一枚もましな写真がなかった)。このシリーズの流れの関係でやむを得ず写真を掲載する。


FG書込№15-043-09。This is America第5回雪のキャニオン-4。
※ホテルを出てから約45分過ぎ:もうグランドキャニオンを発つ。
滞在はわずか二十分程度か。見はらしポイントまでの距離を除くと十分弱。

 おまけに、カメラの露出を-1.0としており、ミスに気づき、訂正してからの撮影は数分。そして、この天気、これでは……。ただし、天気問題が本質ではない。時間不足と設定ミスが本質である。


 雪が降っていても、吹雪いて何も見えなくても、決めるときはきめなければならない。天気は言い訳にはならない。一番重要な構想を持つ時間がなかったことが敗因である。また、訪米前に現地のHPを見て構想を練っていなかったことが敗因である。……



◎アメリカの大地と先住民に想う

 以下、拙著『旅に心を求めて・不条理編・上』(Kindle版発売中){Kobo版は本年9月頃販売検討}第1章より抜粋する。
 ただし、ネィティブアメリカンを、ここでは他の文献からの引用の中でインディアンと書いている。ネィティブアメリカンが一番呼ばれたい呼び方での記述が不可欠である。私もそれを頭にたたき込まなければならないが、引用文のため、やむを得ずそのまま記載した

 
 ……イギリスからアメリカにやってきた移民たち(特に米国南部のプランナーたち)は、限りなく安価な労働力を必要としていたことは周知の通りである。
 当初、彼らは「インディアンを使おうとした。だが……インディアンたちは、入植してきた白人たちの病気にきわめて感染しやすいこともわかった。……そこでイギリスやアイルランドから、貧しい白人や囚人たち、それに借金で身動きのとれない者たちが、アメリカの農場へ送りこまれた」。(だが、彼らは)「……年季を終えたあと釈放されて自由の身となっていった


 そのためたえず新たな労働力が、補給されなければならなかった」。その上、逃亡した場合には肌の色が白人と同じなので見つけることが不可能だったこともある。そこで、彼らは黒人に目をつけた。
 「アフリカ人ならば色が黒いから逃げても簡単に見つけられるし、それに金で買うことができ、生命(いのち)のある限り、自分の所有物として使うことができたからだ。おまけになんといっても、供給源が無尽蔵だった」{土屋哲、『アフリカの心』、(岩波ジュニア新書)、一九八九年、三五頁}。
 さらに、奴隷に家庭を持たせることで、奴隷の再生産が可能となる。このように、消耗品的人間は偶然に生じるのではなく、計画的に生み出されたのである。


 ちなみに、アフリカは、有史以前は今で言う〝先進国〟であった。有史に入ってからも、西アフリカではガーナ王国(八世紀~一一世紀)、一三世紀からはマリ帝国と、幾多の王国が栄えていた。{ROLAND OLIVER AND J. D. FAGE, A SHORT HISTORY OF AFRICA, PENGUIN BOOKS、1962. 参照}。
 ただし、歴史の中で、どの国も繁栄と停滞の時期があり、経済・文化・制度の隙(すき)間(ま)を狙ってアフリカに白羽の矢がたっただけである。
 
 八世紀のイスラム世界でも、「たくさんの奴隷が、商品として売買されていた。奴隷は白人奴隷と黒人奴隷からなり……」{石渡延男・中山義昭、『世界と日本の歴史・4』、(大月書店)、一九八八年、六七頁}とあるように、黒人だけが奴隷であった訳ではない。


 要するに、一部の人間が必要とする消耗品的人間(その極地である奴隷)は、黒人に限定されていた訳ではない。アメリカでは、前述の如く、消耗品的労働力として、アメリカ原住民、欧州の貧困な白人や囚人といろいろ実験した後で、アフリカの黒人に白羽の矢をたて、計画的に獲得・生産・再生産するような仕組みを作った。
 いつの時代でも、消耗品的人間(消耗品・使い捨て型労働力商品)は、経済外的強制(政治的強制)によってか、それが不可能な場合には現代の日本などの如く経済的強制(蟻(あり)地獄に陥ると一部の仕事にしかつけないような〝一見自然にみえる〟仕組み等々)で計画的に生み出されてきたのである。


 こうしたことを、高校一年時に考えるきっかけとなったのが、映画・『黒部の太陽』である。その土台には『あゝ野麦峠』の女工問題{映画・『あゝ野麦峠』(山本薩夫監督、一九七九年)では、昭和初期までの日本輸出産業の花形であった製糸業と貧困のどん底で家計を支えるための女工の姿がコントラストを描いていた}と同様の問題があったように思われる。
 社会が進歩するにつれて、人の命は重たいと口では言われながらも、相変わらず、時には逆に、科学と進歩の名の下に命が軽(かろ)んじられている。
 即ち、科学の進歩と人間との狭間(はざま)にある不条理の世界に〝何か〟を求めていたのかもしれない。こうした問題に関して、今後も〝何か〟を求め続けていくことになるであろう。
 社会が進歩するにつれて、人の命は重たいと口では言われながらも、相変わらず、時には逆に、科学と進歩の名の下に命が軽(かろ)んじられている。即ち、科学の進歩と人間との狭間(はざま)にある不条理の世界に〝何か〟を求めていたのかもしれない。


 こうした問題に関して、今後も〝何か〟を求め続けていくことになるであろう。 政経の世界においても、今日(こんにち)の形式的な人間尊重ではなく、全ての面で、人間の生き様(ざま)(実態)そのものを重視しなければならないと考えている。
 例えば、科学の発達・発展という名の下で、百歳以上生きたとしても、寝たきりでベットに縛りつけられ、ただ管理され生きることに価値があるのか、テレビはなくとも一家で楽しく暮らし、そして最(さい)期(ご)は(その)時代が適切寿命と思う年齢の頃に、畑かどこかでポックリと逝(い)くことが幸せなのか、という問題である。 様々な複雑な想いの中で、黒部ダムを去る前に、再度、「黒部ダム殉職者」の像に合掌する。
 ……《中略》……



●アメリカ大陸が発見されたのは一四九二年(コロンブス)と暗記するのも、同様に意味はない。
 アメリカ大陸を最初に発見したのは、(「東アジア」に到着したと思っていた)コロンブスか、アメリゴ・ヴェスプッチか、コロンブス以前にカナダに到達したバイキング(ノルウェー等北欧の人々)か、それとも一万年以上前にどこからか辿(たど)り着いた人々か。
 要するに、とっくの昔にアメリカ大陸に住んでいた先住民の存在と、彼らがどのような形で取り扱われたかの方が遙(はる)かに重要である。西部劇映画・TVが、〝なぜ〟、現在作成されなくなったかを想起すれば分かるであろう。

 日本の時代劇は作成され続けても、米国の西部劇は映画から消えた。十年ほど前ですら、せいぜいTVで『大草原の小さな家』程度である。私の小学校・中学校時代は「西部劇」が全盛であった。だが、あの映画を先住民の側からみれば違うドラマとなる。白人の生活、先住民の生活、その軋轢(あつれき)が、私が今回テーマとしている〝不条理〟でもある。もし、今後アメリカ時代劇が復活するときには、全く違う形のアメリカ史として描かれるであろう。
同上第2章より。


【2015年6月7日追記】アメリカで購入した唯一の土産、それはネィティブアメリカンの歴史という本であった。これ以外、何一つ、日本に持ち帰る物は購入しなかった。